紀元前6世紀を境に壺に人間が描かれ始めた(加藤周一)

紀元前6世紀を境に壺に人間が描かれ始めた(加藤周一)

『羊の歌』(岩波新書」なのか全集のどこかのエセイなのか探しても見つからない。しかし、彼の文章で思い出すのは、アテネの博物館で観光客がほとんど行かない2階の展示室にエーゲ海から引き揚げられた壺が年代別に並べられていて、はじめのころの壺にはタコやイカや魚類が描かれていたのに、紀元前6世紀に入ると、人が描かれ始めていることを発見した加藤周一の文章だ。

その世紀は、自然哲学者がギリシャで輩出し、自然の基礎原理は何かを探す一方、関心ごとが人間に向かってきた時代でもある。なぜそういうことが起こるのか?外の海洋生物や野生動物から人間自身に描く対象が変わるきっかけは何であったのかということである。自然の延長として人間の姿も海の生物と同列・同等な感覚で描いたのならわかりやすいのだが、余りにも紀元前6世紀という区切りで突然描かれ始めるところが気になる。文化が変容するときは必ずどこかの,だれかの影響を受けていると思うと、近くの文明圏で人間を対象にした絵柄がすでに描かれていて、それをギリシャ人が真似をしたとも考えられる。あくまで何の証拠もない筆者の妄想ではある。

地中海の文明は紀元前3000年ころのエーゲ文明、クレタの青銅器文明、さらに近くにエジプト文明がそびえたつ。大英博物館の地下にギリシャのパルテノン神殿を真っ白にするための刷毛と塗料が置いてある。原色に近い赤や青のエジプトで使われた色彩が元々のパルテノン神殿には塗られていたのである。エジプトのピラミッドの壁にはたくさんの神官が描かれている。ギリシャ人が地中海に植民を始めるのが紀元前800年ころ。さまざまな人々とギリシャ人は接触を繰り返して、自分自身を照り返される他人の存在、対象が自然から人間へ関心の意向が変わってきたのかもしれない。実はこの紀元前6世紀は、インドでブッダ、中国では孔子や老子などの諸氏百家が出てきて、その後の人間の思想や学問・宗教に影響を与える人たちが出てきている。不思議な世紀である。人間の交流(この場合、中国とギリシャやインドの間で)があったのかもしれない。物が西から東、東から西へ移動して発見されれば実証できるのだが。

その伝でいくと、40世紀からみて20世紀ないし21世紀はどんな時代であったのか想像するのは楽しい。曰く、手に銃や小さな携帯電話を持って他人を脅したり、無益な言語をばらまいて混乱をきたしていた時代であるが、自滅してしまった。

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