読書という行為はいつ誕生したのか「第2回」
読書という行為はいつ誕生したのか『第2回』
しかし、イリイチの見立ては、この読書主義は幕を閉じて、新しい本との関わり方、コミュニケーション、ポエム(詩の朗読)へと変わった。挿絵や解説書、マンガ本、表、囲み欄、グラフ、写真ほか他のメディアとの合成物などの関わり方である。ある意味、読書主義はカトリック教会や修道院、修道院の延長としての大学、インテリ層や官僚は既得の特権を保護するために各種の法律文書などで守られてきたが「古典的な印刷文化は束の間の現象だった」。科学者や人文科学者、聖職者など彼らを見ていると、行きつく先が読書主義(書物愛好)が圧倒的に多いのはそういうわけだ。
しかし、それも終わるとイリッチ。読書習慣に入るといつのまにか西欧社会で「読書を日常にする人々は、識字能力に欠けた人々の憧れれるべき対象となった。そしてそのために、文字の知識のない人々は、より優れた人々、すなわち文字の知識を有する人々から(無教育な人間)として必然的に卑しまれ、管理され、監督される立場に、みずからを貶めるのだった」(同書93p)そう考えると、私たちがつくった「学校」という制度は、イリッチの上の5行から考えると差別の温床そのものではないかとさえ見えてくる(取扱説明書を読むことまで含めて)。イリッチはヨーロッパを離れて、中南米の国へも渡り、教育現場を見ているからさまざまな文化・民族に触れてきて思うところがあったのである。
11月のアメリカ大統領選挙でトランプを支持した7000万人を超える有権者の中にプアホワイトが多い。文字や言葉を自由に操れない、イリッチの言う無教育な人間が多かったかもしれない。
言葉は権力の代名詞に簡単になることは太古の昔からあったが、言葉を操る長老はそれを「善」や「公平さ」を実現する道具として使っていたのかもしれないと妄想する筆者である。中国では宦官の書記(記録を残せるインテリ)が疑似権力を握っていたかもしれない。
現代はどうか。それぞれ胸に手を当てて、テレビ・新聞・教授・政治家・官僚・教師たち・親たち・会社の上司・取引先の担当者・ブログの文章を書く人。自分の身の回りの人と自分自身を「教育や読書」などの観点から再点検してもいいような気がしてきた本であったが、難解であった。
反省猿。
文字を読み想像を巡らせ文書の中に入り込み感慨に耽ったり、納得したり、反発したりと、文字の力、文書の力は確かに強力な効果がありますね。しかし最近では、多くの子供や若者たちの間では、映像による動画、アニメーションによる空想的な世界感、活字は漫画本と変化していますね。子供や若者だけなら未だしも、今の流行りは「鬼滅の刃」などと言う漫画からアニメーション化された映画を立派な大人たちまでが関心を持つ時代ですよね。子供の目からは「大人も漫画が好きなんだね?」と冷ややか。漫画も年々残酷なシーンのものが多くなったような気がしますが、映画のジャンルでは年齢制限などありますが、漫画やアニメの場合、作者は幼い心に与える影響など考えているのでしょうか?学校や家庭では読書を奨励していても、現代の世の中の流れではその逆を行っているようにも見えますね。それにしてもPCやスマホの普及で我々も文字を忘れだしてしまっていますね。<反省!>
seto
活字の力、文字の力、影響の前にあったのが音声ですね。声で伝える歴史が長い間、主流でした。ブッダもキリストもマホメットも全員、語る人声の人でした。近くの人が・弟子がそれを伝えた文字を集めたのが仏典だし聖書だしコーランです。そういう意味で現在のアニメは吹き替えであっても絵が語ると思えば、アニメがブッダやキリストだと思えば2000年経過しても現象は同じだと思いませんか?こんなことを言う私も変といえば変ですが。残酷シーンは年齢制限したほうが私もいいと思いますが、レンタル店でホラーものは表紙から血みどろ写真で私は目をそむけます。元々、血を見ると震えるたちなので。
広告マン。
疑似権力と言えば、大統領も総理大臣も演説や答弁を全て自分で作成しているはずが有りませんね。優れたゴーストライターが居て流暢かつ明確なシナリオや原稿を用意しているのでしょう。実際に権力者は、影の権力者に操られていて、実は無力だったりするかも知れませんね。
seto
影の権力者、知恵者ですね。必ずいますね。一番の影の権力者は妻です。次は子供、中でも赤ん坊が最大の権力を持っていて夫婦はひれ伏します。朝、世界のニュースを見てますが(BS1)、皆さん、自分の言葉で語りますね。政治家には国会に弁論部でも設けて、その終了証明書がないと当選剥奪でもしないと勉強嫌いな泥棒・相槌集団になってしまいます。
昔の少年。
学校ではテストの度に廊下に席次表が張られました。全生徒が見える廊下にです。さらには全校一斉漢字テストでは玄関の長い廊下に全校生徒の成績順が張られました。今思えば左程悪い成績では無かったのですが、恥ずかしかったですね。恥ずかしい程度なら未だしも、精神的に大きなダメージを受けた生徒もきっと大勢いたと思います。中学の時のクラス分けは成績順でハッキリ分けられていました。A組は優秀、C組は落ちこぼれと言う様に、完全な差別ですが、それもこれも皆んなが判っていましたから当時は大きな問題ではありませんでした。今ならどうでしょう?個人情報を公表するなど大問題になるのでしょうね。と言うよりも親が学校に乗り込みますか?ね。
seto
貼りだすほうが面白いと思います。成績なんて個人のうちの5%くらいのウエートですから。ただ500人いたら上位100番までですかね。マンガ家や有名人で最下位争いをしていたと豪語する人もいましたが、上で頑張るより下で頑張る人って魅力的だと思いませんか?私は小学校1年生で図画工作が1または2でした。上中下の下でしたよ。相当ひどかったんだと思いますが、作品を思い出せません。中学のときにSS(偏差値)が導入されましたが、クラス順位と学年順位は、学績模にはっきり書かれました。読書の話からどんどんそれていき、すいません。