27歳で勤め人になってサラリーマン生活を始めた。大学は7年通い本ばかり読んで退学。浪人を入れると8年間、自由時間を過ごしてきた。親と社会(税金を使わせてもらった)に大感謝である。それはともかく辞表の話だ。2月2日に社長に辞表を出した。アルバイトの身ではあっても小企業の役員をしていたので、調べると役員と公務員は,辞表、民間は退職願であると書かれていた。退職願の場合は、(願い)なので拒否される場合があるが、(辞表)は有無を言わせぬ何月何日をもって退職すると断定的に書く。曖昧さがなく気持ちのいいものである。去年から辞めどきを考えていた。残り少ない時間を好きな化石探しや縄文土器探検・札幌市電の延伸計画運動をしようと思っていた。体力も落ちてくるし。出来る間に動かないとあっという間に人生の幕引きがくる。恐ろしいほど速度が速いので皆さん注意してほしい。そこへ好機到来の事件発生だ。ここが辞めどきと踏んだ。

辞表は初めて書くので模範例文を探すと、退職願いと形式はほぼ同じ。辞表は茶封筒より白封筒を進めていたので、2回書き直して完成。少し緊張した時間だが、こういうとき万年筆が欲しいなあと思った瞬間だ。ボールペンは軽くていけない。大学時代の恩師から年賀状に太字の万年筆の直筆が来て、嬉しかった。それにしてもどうして自分の字は下手なのか、履歴書を何度も書いてもいるので、書道かペン字でも勉強すればと悔やんだ。辞表を書いていて、まったく関係のない綺麗な字を書く人を思い出してもいた。仕事の電話を簡潔に書いて渡してくれ、ペン習字を習ったのかと思うほどの素敵な字だ。

辞表の話であったが、無事に2月28日に退職し、肩書はブロガーのみの私になった。名刺を100枚追加発注した。世界のどこへ行っても通用する肩書を得た。

  1. 退職おめでとうございます。潔いですね。ところでブロガーの肩書の名刺をブローカーと読み間違われませんように。何か売りつけられないかと警戒されますからね。

    • ブローカーの方が私の場合、肩書が似合ってる気がします。相手を見て渡します。人相が悪相なったら,名刺は使わないようにします。4月10日過ぎたら、動き出すかもしれません。JR通勤代を稼ぎます。札幌は友人多く楽しいですから。

  2. 転職も何回もしていますが、辞表は一度だけ経験しました。後は口だけの辞表や退職願でした。様々な必要手続きはちゃんとしましたが。

    • 辞める時、出すのも面倒というケースありますね。そういう人のために代行業務あります。書く練習になるんですが。前職で私に2階級特進人事がありました、心臓病の後なので断りましたが、大企業の人から「2階級特進人事を断ると言うことは、会社を辞めるということだよ」と言われ、文化違えば考え方も違うもんだと思った次第。その会社には62歳までいましたね。

  3. 突然!会社を辞めて家庭に帰り、前借など差っ引かれて数千円の手取りを見せて、カミさんに「会社を辞めてやった!」と自慢げに言うと、「あら、そう」と簡単に片づけられた時はショックでしたね。そして女性の度胸の良さと肝が据わった性格には驚きましたね。それでどうするの?とも何とも心配する様子もありませんでしたから、そうなると此方も次は頑張るぞと言う気になったのを思い出しました。今思えば、子供も居たのに、我ながら無茶をやったものだと思いますね。

    • まったく同じ経験を私もしています。組合運動の後、疲れてその会社を退職、間違って生保へ行ったのですがそこもダメ。妻に会社辞めたと言うと「のんびり探したら」というのみ。クドクド言いませんでした、救われましたね。3歳の娘がいたのにです。ここで「明日からどうするのよ!」とかやられると焦って貧乏くじを引く羽目になること多いですからね。結婚して4回の転職ですから、まあよく生きてこれたと自分に感嘆します。一番嬉しいのは、退職を知らせると娘と息子から妻から「よく働いてきたね」と言われたこと。北海道に勤務した新聞社の若手18名から寄せ書きの「感謝状」が送られてきたこと。苦楽を共にした仲間たちですね。人を育ててもいたんだと嬉しくなります。彼らもいずれ会社を辞めて次のステップに行くのでしょうが、新しい事業や雇用をつくる業務に邁進して欲しいと思いますね。

  4. 辞めるキッカケになった強烈な思い出は、フリーランスを諦め、ある会社に入社して制作部のディレクターになりました。3Fの制作部で上司はいませんでしたので責任者のつもりでしたが、或る日の事、知り合いが3Fまで訪ねて来て「今、下で社長面談をしてきた」と。「えっ?」。それも地元大手の広告会社を辞めて来たと。この友人は前々職の制作プロダクションでの同僚で、待遇の酷さに耐え兼ね、私が煽動して彼も含めて十名一緒に辞めた経緯があり、しかも地元大手に入社前には私の下宿に他の友人と二人で暫くゴロゴロ居候していて、再就職に必要な宿題の試験で苦手分野のイラストを代筆してあげて合格した情けない奴でした。入社決定し、私の目の前のデスクで働き始めて初めての給料日に彼曰く「給料が安くて・・・」とこぼし始めたので、「どれ?見せて見ろ!」と。簡単に見せてくれた明細書を見て驚愕!何と私より高かったのです。即、社長に「どうして奴が私より高いのか?」と。「前の地元代理店より高くしただけ」と。「そうでしたか?やっていられませんので辞めさせて貰います。今すぐ私の代わりを入れてください」と。「君の給与も上げるから」。「い~や!気分が悪いので、もう結構です。明日、退職願を書いてきます」と。翌日私は内ポケットの退職願を常務に見せながら決意を表明。代わりに地元代理店の年配のベテランが入社決定し、私は、即、本州企業の支店に作品持参で面接に行き入社。どんな会社でも人間関係では何度も嫌な思いをしましたが、若い時だけに、あれほどのショックは珍しいですね。そんな彼ですが、株に凝って証券会社のウインドウを毎日のように見に行っていたらしく、株で相当儲けたとの風の噂でした?が、何と?或る日の事、町で拾ったタクシーの運転手をしていました。「どうした?」、「いろいろ有ってさ~」会話は弾まず仕舞いでタクシーを降りました。彼には、何をしても食って行ける知恵としての最終的な得意技(運転)も有ったようですが、声は暗かったです。良い事ばかりは続かないようですね。幸田露伴の幸福論の「惜福」を思い出しますね。

    • 人生は最終章になるまで全くわからない典型例ですね。広告マンさんと同じ年齢なら、毎日毎日、株屋(証券)のガラス窓超しに大勢が株ゲームで一喜一憂してました。ずいぶん稼いだ人もいるようですがどうなんでしyぉうか?株をして儲けた人を何人か知っていますが、共通は生意気と怠け者で、相手に与えることを知らず、他人から信用があんまりない人ですね。タクシーの運転手になった元同僚に会うと複雑ですね。大手の広告会社は当時給与は高くて、うらやむ暮らしをしていました。当然、証券会社の営業もささりこんできました。私にでさえ野村が来ましたが、相手にしませんが、NTT株の申し込みだけ頼まれて書きました。当選はしませんでした。いま、彼はどうしているのでしょうか?しかし、広告マンさんが万が一、給与を上げられてそこの会社に長い間、在籍したとしたらどうだったでしょうか?そう考えると、自分のそのときの感情が方向性を決めている感じがしますが、どうでしょうか?今回の辞表も半分以上、計算より感情です。

  5. 気持ちよく働きたいものですね。いっそ給与もガラス張りにしてしまえばいいのにと思いますね。誰々の給与が高いのは、仕事内容と貢献度での査定額と皆が認めるなら文句のつけようがありませんからね。社長の給与も社員より安かったりして。それだけ楽しているからだと。年功序列で年寄りほど高いのは、もう古いのかも知れませんね。毎日昼には寿司屋で昼食をとり、午後3時台にはスポーツ店に行き、クラブを一本買って来て、堂々とオフイスに持ち込み、暇さえあればお決まりの喫茶店で週刊誌などを見て一日を過ごし、給与は毎月80~90万円。もちろんボーナスだって人一倍の市役所内の上階に事務所を持つ市の外郭団体の理事なども居ました。一体仕事の内容は何でしょうね?。「えっ?」「無いよう!」ですか。

    • 気持ちよく働くためには、透明性ですかね。前職で経理の女性が全社員の給与を暴露した事件がありました。一度知ると、もう記憶から消えないので、気持ちよく働くために公開しないといけないのですが、大企業も俸給表で何号何番で数値化されて組合と締結、終身雇用を組合も一緒になって支えていました。同罪ですね。総務省や政治家を見ていると働くのがバカバカしくなりますね。ずるく稼ぐ人は、自分の恥部を知ってる人を排斥します。ミニ政治家ですね。甘い汁を吸うとやめられなくなる人の性でししょうか?

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