老子自由訳「汚い」があるから「美しい」があるのさ
久しぶりに加島祥造訳「老子(タオ)」の自由訳を載せます。何もないから「働きをする」。部屋が物でびっちり溢れていたら、誰も入れない。コップも中の空虚空間があるから「水」や「ジュース」が入れられる。空間があるから地球も浮いて存在している。ノーベル物理学賞を取った湯川秀樹さんが、少年時代から老子を熟読して、後の中性子の理論を発見するヒントになったらしい。青色は本文では黒丸点が打たれています。
第二章「汚い」があるから「美しい」が在るのさ
天と地が生まれて
物に名がついたわけだが、
名とは
物の表っ面(うわっつら)にただ張りついてるだけなんだ。
美しいと汚いは、
別々にあるんじゃない。
美しいものは、
汚いものがあるから
美しいと呼ばれるんだ。
善悪だってそうさ。
善は、
悪があるから、
善と呼ばれる。
悪の在るおかげで
善があるってわけさ。
同じように、
ものが「在る」のも、
「無い」があるからこそ在るといえるんでね。
お互いに
片一方だけじゃあ、けっして存在しえないんだ。
長い、と言ったって
短いがあるから長いのさ。
高い、と言ったって
低いものがあるから高いんだ。
ひとつの歌だって、そこに
声とトーンがあるから歌になる。
前だって
後ろがあるから
前もありうるってわけでね。
だから
道(タオ)の働きにつながる人は
知ったかぶって
美醜善悪を手軽くきめつけたりしない。
ものの中にある自然のリズムに任せて
手出しをしない。
すべてのものは生まれ出て
千変万化して動いてゆくんだからね。
このタオの
本当のリアリティを受け入れるとき
人は
何かを造りあげても威張らない。
成功しても、
成果を自分のものにしない。
自分のものだと主張しないから
かえって人から忘れられない。そして
誰もその人の成果を
奪い取ろうとしないんだ。
明日は「ネット・バカ」ニコラス・G・カーの第1章の紹介です。
昔の少年
空と地上があり、川があるから海があり、風があるから雲が流れ、昼が過ぎて夜が来る。ずっと前に「空は海」、「雲は風」、と言う詩を書いたことがあった。空をじっと眺めていると、自分が深海の底に生かされているような気がしてくる。草は岩肌の藻、樹木は海草、鳥は魚。飛行機はとりわけボートか。宇宙の中の地球だって、地球上の海や川だって、大気と水の違いはあれ、スケールダウンしていけば、母親の胎内だって、自分自身の身体だって、海や宇宙のようにも思えてくる。無限の宇宙の不思議は、これらの身の回りの小宇宙を考えれば、皆んな同じに思えてくる。すべてがつながっているから自然にさからわずに身を任せて生きることが大事なのだろう。