Posted by seto

   楕円の右と左が第一地域

戦後書かれた文明論で、最高の本と称される「文明の生態史観」(1956年~1957年)。いまから60年前、彼が36歳のときに書いた論文を集めた本が出て当時、言論界が騒然とした事件があった。

1955年5月から11月まで、戦後最大の学術調査隊が京都大学を中心に農学・植物学・地質学・人類学・考古学・言語学・医学研究者が木原均京都大学農学部教授を隊長に、それに梅棹さんも選ばれて、アフガニスタン、インド、パキスタンを旅行した。そのときの感慨や印象記をつづったのが、この本に書かれたたくさんの論文で、中でも「文明の生態史観」は、文明を第一地域、第二地域、それに新世界の3つに分けた。第一地域は封建制度を経て近代へ移行した地域で、日本や西ヨーロッパでユーラシア大陸の東と西の端に位置する。第二地域はユーラシア大陸を楕円にすると真ん中の大部分、中国・インド・イラン・トルコ・パキスタン・旧ソ連・エジプト。新世界はアメリカ・オーストラリア・南米など。


なぜ、梅棹さんのこうした分類が賛否両論の問題を引き起こしたのかというと、これまでの日本文明論はたえず西ヨーロッパとの比較から導き出された遅れた●●という言論で覆い尽くされていた。そこにインドやイラン、パキスタンという国々を巡ってきた梅棹さんから見ると、なぜ、こんなに文明や文化の古い、人口も圧倒的なシェアを占める地域をなおざりにした文明論が知識人によって書かれるのか一矢を報いたのである。まるで彼らが生存していないかのような論文の多さに辟易したのかもしれない。現代でもイスラムについて知識や知性のエアポケットであるように、60年前の自分の足で踏破した梅棹さんはインドやイラン、パキスタンで感じたことを文明論として客観的に記述しただけであるのに。


そしてようやく本題の「道産子気質」である。梅竿さんはこの中で「新世界」という第三の項目を設けて、その特質を次のように書いた。少し長くなるけれど引用する。「文明の生態史観」(中央公論社 1967年刊 111p)


「近代文明は、伝統との対決という点では、もう一つ、まったく事情のことなる場所において展開した。新世界である。新世界には、伝統がなかった。かれらがあった唯一の伝統の抵抗は、出身地たる本国の伝統であり、かれら自身の中ににある旧世界の教養であった。移住者たちの共同体が、文明生活にはいるためには、ただ、それから離脱すればよかったのだ。もちろん離脱にはかなりの摩擦はともなったけれど、とにかく、相前後して、二十数カ国にのぼるあたらしい共同体が発生する。いずれも、旧世界が脱皮のくるしみを受けていた前後であることは興味ぶかい。新世界の住民たちの、文明に対する態度の特徴は、あたらしい生活様式の可能性に対して無限の希望と信頼を抱きながら、しかも、旧世界の伝統に対してある種のコンプレックスを持っている、ということではないだろうか。そこは、伝統に対して無知であるとともに、意外に伝統保存的な地域でもある」。


アメリカ人がどうしようもない劣等感を西ヨーロッパの母国に心理の根底に抱いているように、道産子の気質もこの一文で説明が可能であると思う。旧世界は本州である。私が東京を飛び越して京都の私大に向かったのも(私の祖先の田舎は徳島)、母も少女時代、大阪暮らしへ、娘も京都の私大へ進学。兄も大阪本社企業へ就職した。とにかく北海道(札幌)を早く抜け出したかったのは確かである。しかも向かうのは、梅竿さんの言う「伝統保存されてる地域」であった。本州は道民にとって異国であった。はじめて北海道を旅した本州人が、「ここはヨ-ロッパかアメリカのようだ」と感じたように。ということは、アメリカからやってきた明治のお雇い外国人は、北海道をアメリカの祖国のように感じた可能性があるということだ。

  1. 今では全国どこも同じような街並みですが、50年前まではハッキリした違いがありました。私も初めて見た北海道で驚いたことが沢山あります。極寒の街で路面電車を待つサラリーマンやOLが普通のコートで手袋さえしていないで、しかも普通の革靴だったのには驚きました。また桑園辺りの住宅はマンサード型の屋根で広い道路に雪が降って、まるでヨーロッパかと錯覚するほどの景色でした。今では空撮の写真を見るとコンクリートのビルばかりで、まるで墓場のようです。ポプラ並木の歩道も情緒が有りました。下宿先を探すのに、わざわざドイツ張りの木壁で白い窓が上下するヨーロッパかアメリカの古い民家風の建物を探して医大前に住んだものです。今ではどこも見る影も無く、当時の美しい街並みを思い出すだけです。札幌もオリンピックを境に近代化されたものの都市計画では大失敗でしたね。今では札幌らしさはどこにも見当たらなくなってしまいました。ただ一つ、本州に今も残された悪しき?慣習の無い別世界では有りますね。このお陰で随分助けられました。

    • 私は札幌駅北口生まれで,生家は物置小屋として残ってました。山鼻や屯田には面影はあるんですが、市場とか商店街が残っているところですね。住宅街で古いのは桑園あたりですが、もうマンション乱立で変わりました。残るは風景で創成川縁に柳が垂れています。子供のころからあります。市電が縦横に走っていた少年時代、北5条の陸橋を超えると「町に入る」とドキドキしたものです。山の手や円山の人たちが都心に回帰してる現象あります。札幌ッコが都心へ戻る、高い値段で土地を売り、郊外へ行ったが、老いて買い物や坂道に難儀して降りてきたのです。郊外の戸建てはヨーロピアン風にペンキの色を統一する町にすると楽しいですね。楽しく住む工夫をどの町もすれば公共性が小さなころからはぐくまれますよ。

  2. 若い頃、家族を捨て、友達も、恋人も、仲間も、仕事も綺麗サッパリ捨てて新天地北海道に来ました。捨てたと言うより距離を置いたと言う方が正しいかも知れません。その代わり、新しいお付き合いが始まりました。それらすべてが自分にとって良かったとは言えませんが、少なくてもこれまでの関係とは違い新鮮な感覚でした。その違いさえ感じなくなった今初めてこの土地に根を張ったのだと思います。最初の頃は、いつ帰ろうか?本州に戻ろうか?京都がいいか?それとも東京か?と迷う日々でしたが、何処に住もうが、住めば都ですね。

    • そうでしたか。何かを捨てて何かを得るといいますが、そのときは計算とか打算ではなくて、何かしら情熱や夢や失望や複雑な感情があったのでしょうね。北に向かう人は失恋の人が多いと聞きます。道産子はアバウトな人が多い(?)から良かったかもしれません。転勤族で3年ぐらいいると札幌が懐かしくて、来札する人が多いです。水や空気が美味いのでしょう。さっき新千歳空港へ行くとAB駐車場満員。ツアー客、卒業旅行、家族旅行でお土産売り場もきのとやは長い列でした。北に人が集まってきました。活気ありましたよ。

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