お葬式(臨時原稿)
全国、どこの町でも葬儀は縮小され、親族・家族で小さな会場を借りて行われている。娘の嫁ぐ大分県中津市で義理の母が亡くなり、喪主の妻としてふるまわなければいけない。半年前から式場の予約、故人の写真選択、進行の仕方、住職への依頼、財産の管理、葬儀に呼ぶ人呼ばない人を亡くなったお母さんとのゆったりした会話の中で決めてきたと言う。死亡診断書を医師からもらい市役所に届ける。新聞告知を出すが同時に地区の街頭放送が「何月何日、だれだれが亡くなりました。享年72歳。」通夜と告別式の日程がアナウンスされる。それを聞いて近所の人たちがどっと押し寄せる。面白いのは、香典の額が1000円でも2000円でも全然OKで、香典返しをもらうのと告別式には「ランチ」をもらって帰る風習がある。用意する側は大変である。新型コロナの状況なので,来ては帰る方式だと思うが、残された家族を地域社会で守りますよという見える意思表示は、人間関係が都会化の乾いた冷たい時代を考えると、ウェットでねっとりした,干渉がうるさいがしかし憎めない「世間」が下町や地方都市では生きている。「お互い、顔を合わせて今を生きていることを確かめ合う」セレモニーとして有効なことだと思う。好きな大衆芸能の追っかけを友人たちともしてきた義母。北海道には一度だけ、娘の結婚前に顔を出した。「結納金は要りません」と私どもは断った。少し、かっこいい親を演じてみた。
そういえば、この町で長男が嫁をもらうときに親戚縁者を回り、嫁を見せて歩く習慣があって「嫌な習慣」だと言いながらおしゃれして娘は回った。北海道は本州の習慣を捨てた部分もあるので、おおざっぱにできている。しかし、何十年かして義理の母の葬儀になると、面倒くさかった嫌な習慣がたくさんの人を連れて帰ってくるような気がするのだ。世間で生きていくのは面倒くさいことであるのは、どこでも同じ。企業の中でも同じことだ。「人間、ほんとうは、社会なんてつくりたくなかった」(ルソー)。
きょうの午后6時からお通夜だ。