どこかで文明史や人類史は間違ってしまったのかもしれない。そんなことを考える日々が多くなった。松岡正剛さんの「文明の奥と底」133p)ルネ・ジラール「世の初めから隠されていること」のサブタイトルが(歴史の最初の最初から〈犠牲〉と〈横取り〉で始まっていた)である。そして(歴史は繰り返す)ことを思うと、最初の本、旧約聖書にそれを暗示する言葉があるはずだと推測して〈出エジプト記)を再読した。苛烈な労働を強いられていたイスラエル人をエジプトからカナンの地へ連れ出しなさいとヤーベの啓示を受けたモーセ。エジプトを去るにあたって「あなたがたは去るときに、空し手で去ってはならない。女はみな、その隣の女と家に宿っている女に、銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。そしてこれらを、あなたがたの息子・娘に着けさせなさい。このようにエジプト人のものを奪い取りなさい」(第13章13節)紀元前1350年ごろにエクゾダスが起きたとされている。モーセの10戒にはごぞんじのように第8番目に汝盗むなかれという命令がある。主は二枚舌を使っているのか。さらに6番目が汝殺すなかれである。ヤーヴェは盗みの勧めを説いているのだ。さらにモーセに連れられて、カナンの土地につくまでにイスラエル人がシナイ半島の周りを40年間ぐるぐる回って歩く。しかし、そこには先に住んでいた様々な民族がいたのであるが、そこのけそこのけイスラエル人が通るで次々に虐殺していった。汝殺すなかれも破っている。これはどういうことだ。4000年前の話であるけれど、キリスト教の生みの親のユダヤ教が内部に自己矛盾(言動不一致)を抱えて、それがユダヤという一民族なら影響も限定的であるが、キリスト教の場合、異民族(病気で苦しんだりローマから迫害された多神教の人々など弱者)への布教をパウロが作り直したので世界宗教になってしまい、今日に至っているわけだ。いまでも無意識にキリスト教徒の言動に、平気で「奪う」「殺す」という癖が流れている気がするのだ。「犠牲を払っても強行する」というバッハ会長を含めて。先ほど、言動不一致の自己矛盾と書いた。なぜ、ユダヤ社会やキリスト教社会が「契約社会」になったのかと考えると、黙っていたら平気で人のものを盗む・殺す癖があるから、それをやられると共同体が成り立たない。そこで出てきたのが契約(書)ではなかったか?しかも契約書やルールは先に提示する(作る側)側に有利になるようにつくるものだから。表題の文明の初めに隠されたこと。実はそういうことではなかったかなというのが暫定的な私の結論である。日本の金もIOCに横取りされていると考えられるわけだ。

追加*1949年アカデミー賞映画「オール・ザ・キングメン」がある。政治的に過激だということでGHQから日本での上映が禁止になった映画だ。万年落選議員から知事になり暗殺されるまでの映画だがなるほど相当に過激だ。この知事が吐くセリフに「善意は悪に支えられている」がある。たとえば寄付行為も、背景にたくさんの人を犠牲にしたり、公的に横領(みたいな)して蓄財をし続けた事案があったかもしれない。ノーベルにしたってたくさんの死者の上に築かれた財産を還元するわけだけど、歴史の最初から(犠牲)と(横取り)の図式が脈々と流れていて、できるだけそれは気づかれないようにしてお化粧を施して、他国や他者から尊敬を集めるようにする構図には変わりない。IOCも欧州貴族層の既得権益層が、スポーツを利用して私益を追求する組織に過ぎない、広告代理店を利用して。選手たちはローマ時代のコロシウムで戦ってるに過ぎないと一度は思ってみてもいい。特等席で観覧しているのはローマの執政官ならぬIOCの役員のお歴々である。

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