談志が落語家になりたいと親に言うが、反対される。しかし、好きなもんはしょうがないと小さん師匠に弟子入りすることになった。そのときの親の気持ちを談志は推し量って「世の親はみんなどこかであきらめる」(河出書房 立川談志 30p)。娘が連れてきた結婚したい男を紹介されたとき、私は最初反対はしたけれどしょうがない。私が大学に退学届けを勝手に出したときも親は「しようがない」とあきらめるしかなかった。いまの妻と結婚するときも「こんな息子でいいの?」と妻に念を押した母親。「はい」と妻。しかし,40年経過して、「お母さんが言う意味」がわかったらしい。ときすでに遅しだ。クリスマスも近づいて世の親たちは子供たちからねだられたプレゼントの数々、高価なゲームソフトも多いが、子供は強く欲しがるので親は「どこかであきらめて」買ってしまう。最新機種のスマホもそうだが、通信費を親が負担している子供も多い。

考えてみると自分も子供のころ、親からあきらめられて育っているから、順繰りの人生だ。運動会でも目立った活躍もなく、学芸会も出番がなく、マンモス小学校ゆえ、まったく特性のない小学校時代を過ごしてきた。母の自慢は1歳上の兄だ。早い時期に私は「どこかであきらめられて」育ってきたような気がする。それがかえっ奔放に自然児(誰かから綽名をつけられた)のように育ち、非常識な社会人になる素地をつくったのかもしれない。

しかし、そのツケも後でやってくる。アメリカ留学はしたまではいいが「もう1年通わせて」と仕送りに汲々とした知人がいた。一人っ子で子供のころから甘やかしたツケがきたと諦めていたが、親の病気や入院騒ぎにははるばるやってきて面倒を看る子供になっているから、それはそれでいい親子関係を築いていると思う。

  1. 貧乏な親を諦めたのは中学高学年の時かも知れません。田舎へ疎開組の我が家の貧乏だけは遺憾にもし難く、小学校では給食費が払えず泣いた事もありました。そんなこんなで、この際いっそ家を出ようと決めて全寮制の高校を選んだのでした。そこではアルバイトで学資も稼げて、寮費や食費も企業の協力で成り立っていて、身の回りの事も全て自分自身で賄えました。でも、たった一度か二度でしたが500円の送金を親にお願いした事がありました。当然ながら同級生や同室者の中でも貧富の差はありましたが、お互い助け合って生活しました。その後は、自分で何でも諦める事だけは止めました。貧乏が故に多少ながら身についた利点かも知れません。今では貧乏だった親に感謝です。もし経済面で甘やかされていたら、今の自分どころか。他人様にも迷惑を掛けていたかも知れませんからね。

    • 私の父もニセコの村の小学校を出て教師を目指してくださいという担任から強い推薦もあったのですが、母親が重病で毎月毎月医療費がかかり学校どころではありませんでした。ジャガイモ農家の手伝いをして進学をあきらめ満鉄に渡りました。次男ですからね。病床の寝床から母親が勉強を教えていたとも聞きました。ある冬の日、ストーブに載せたお湯を妹が被って亡くなりました。その後、母も亡くなり、父親はアルコール依存に。兄と私のどちらかが教師になることを夢見て生きてきたみたいです。しかし、二人ともサラリーマンになり諦めていましたね。子供は子供で「自分の親の生き方・癖」をどこかで諦めているところもありますね。親が子供に対してもつ諦め感もありますが。

  2. 私はこれまで親に相談せずに勝手に道を選んで来ました。大阪へも北海道にも移住や就職はもちろん恋愛さえも自分勝手に決めました。しかし失敗も多く、相談相手も無く不安に駆られる事もしばしばでした。今思えば、随分大胆な性格だったと思いますが、実は小心な故の決断だったのかも知れません。青函連絡船上で簡易書簡に行き先と「落ち着いたら、また連絡します」と父に書いて船上のポストに投函しました。いつもの事と父もあきらめたか?それとも心配してくれたのかは定かではありませんが、自分が親だったら?と今になって考えますと、以前、息子が東京に勝手に決めて就職し上京した時も余り心配しなかったなあと、今になって初めて息子に対する父親の気持ちが分かる気がしましたね。

    • そうですね。父親は息子のことを自分で勝手にやっているだろうと思ってるところありますね。突き放しですね。母親の感情とずいぶん違います。私は札幌市内で勝手に浮遊して生きてきたので、愛知県に10か月暮したことを除けばほぼマイタウンでした。知り合いが多くて友達には不自由しませんでした。なので親のことを真剣に考える時期ってなかったかもしれません。

  3. 好きな事には諦めなんて有りませんが、それでも諦めざるを得ない時もありますね。理由は経済的な事が大半でしょうが、成功者を見ると、必ずしもそうではなく、ハングリー精神で這いあがった人達が余りにも多い事にも気づきますね。以前お世話になった方から聞いた話では、彼が外国航路の貨物船の船員の時にベスパのスクーター一つで乗り込んで来た若者をイタリアで降ろしたそうですが、何とそれが今の小澤征爾氏だったとの事。これに似たような話は数々ありますね。しかしいずれも当時の親はあきらめたのでしょうね。私の父親も長男で親の職業を継ぐはずが家出して神戸から外国航路の貨物船に乗ったと聞きました。若い時にはみんな先の見えない冒険をするものですね。

    • 宙ぶらりんの人生の時期に、そういえば私は小樽の船員組合に行き「船乗りになりたいので」と志願に行きました。なんの募集もしていないのに。どこか遠くへ行きたかったんでしょう。目的なく。私の体格と体型を見ると「やめておきなさい」と言われて帰ってきました。貨物船と聞くと、小樽で船乗り志願で行った25歳くらいのころを思い出します。小樽から極東→シベリア鉄道→北欧→ヨーロッパ→バクダッド→インド→バンコック、そして帰国を念頭に置いてました。

  4. 親とも離れ、友人たちとも距離を置き、失恋して大阪の下宿でムシャクシャしていた時期に破れかぶれでベトナムに行こうかと真剣に考えました。当時雑誌に掲載されていた広告を見たのです。メコン川を米軍への輸送物資運搬のための高速艇の乗員募集でした。報酬は非常に高額で驚くほどでした。しかし当時はベトナム戦争真っただ中のメコン川ですから両岸のジャングルにはベトコンが手ぐすね引いて待ち構えて居るはずですから、命と引き換えの危ない乗員募集広告でした。間違って応募していたら、今こうして生きていたかどうかも不明ですね。誰にも見放されたと思い込んだ時、人は突飛な事を考えますね。

    • 私の青春時代は、なんでも世界をみてやろうという一人旅が流行ってました。で、国内旅行一人旅路線変更したわけです。広告マンさんのベトナム行きは危険でしたね。カメラマンは澤田教一さんがベトナムで活躍、地雷で亡くなった事件もありましたね。作家開高健も従軍してルポを書いています。ベトナム支局で働いていた新聞記者もベトナム女性と結婚した話もあってベトナムは情報のるつぼでした。もちろん反米がメインでした。人生の曲がり角は、後になって「あのときあの決断があってこうなった」とはいえ、渦中にいるとわかりません。

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