直接、自然に向き合わない。
中島義道さん「醜い日本の私」(新調文庫74p)に、自然への日本人の対応(付き合い方)について「丸山真男座談7巻目」から、木下順二、森有正との鼎談がある。その中で、森有正さんがこんなことを言っている。
森有正:一人の個人が自然と向かい合うということがない。名所旧跡しか目に入らない。
森有正:われわれは自然を見て、必ず西行がどう言った、芭蕉がどういう句をつくったということを考えながら見ている。ああこの岩にはセミの声がしみ込んでいる感じだ、と思いながら見ている。芭蕉を思い出しているので、岩なんか見ていないのですよ。
パリで客死した森さんは樫の木が大好きだった、夏休みになると北海道大学へ来てクラーク会館に宿泊し、そこにあるパイプオルガンを弾いて構内にある巨大な樫の木を眺めていたか、きっと近くの植物園の樫の木も鑑賞していたんだろうなと想像する。彼のエセイに出てくる。丸山さんはじめ、木下順二さんも・・
木下順二:個という問題がはっきりしないものだから、だれかがつくってくれた何かに対して順応するという関係になっちゃってる。
丸山昌男:・・・・・野外の桜見の会などでも幔幕(まんまく)をめぐらしたりして、内輪の間柄を強調する。・・・・・日常的な関係を自然の中に持ち込んで楽しんでいるので、個対自然じゃないんだな。
「自然ははっきりいって怖い」、一対一で向き合うと「恐怖」を感じたことが私には3回ある。一度は福井の永平寺へ福井電鉄で行ったとき、そこの杉林の林立に圧倒されたとき。2度目は支笏湖であまり観光客の行かない「美笛の森」だ。手つかずの古代の森が残っていて、狭い山道(森の中を)走るのだけどパニックが起きそうになった。湖畔の美笛キャンプ場に到着してほっとした。3回目は、林道工事のアルバイトをしていたとき、仕事がはかどらず秋は闇が来るのが早い。街灯もないし、ヘルメットランプもなく、笹を刈っただけの道を頼って4人で歩くのだけど、強烈な黒い闇がどんどん襲ってくる。ガサゴソ音が聞こえたりしたら、ヒグマの接近もあるから、口笛を吹いたり、爆竹を鳴らして不安を解消する。自然の恐怖を感じた。
電気が発明されて、150年にも満たない。人間の歴史のほとんどは闇と自然の世界だ。中国の秦の始皇帝も兵馬傭や万里の長城つくるため、どれだけの森を燃料として破壊していったか。それから見れば、日本の自然観は可愛いものかもしれないが、自分たちの思考習慣に「頭の観念で物を見る癖」が深く深く根付いていて、直接、自然には対峙していないことを想起しながら、自省を加えていきたいものである。しかし、厳密に考えると「観念で見る自然」と「直接対峙する自然」って、どこがどう違うのかわからなくなる。生きてる限り、自分の意識から出れないわけだし。意識の牢獄に住んでいるのが人間かもしれない。
その意識の牢獄が突然の本物の自然の出現で、閉鎖の意識を突然開放し、情緒が不安定になるのだろうと思う。都会にいるとこれは閉じられている。
自分の目、耳、頭、鼻、皮膚。その感覚を大事にしよう。最後に、日本の街中の電線は醜いから、商店街はもっと積極的に地中に電線を埋めて、目に映る美しい街並みを。中島さんの絶望的な希望です。
昔の少年。
自然と文明は相反する存在ですね、自然の景観を重んじれば文明はある程度控え無ければならず、両立すればある意味では暮らしやすい環境ではあるのですが雑多な風景になるでしょうね。文明の発達が自然を無くした今、むしろ自然力の見直しが始まっていますね。既に遅すぎる感もありますが、SDGsなどと世界中が見直しを図り始めました。再生可能エネルギーとしての風力や波力や地熱や水力など昔に戻る事の大切さを再認識して来たようです。大気汚染の元凶と言われて来た文明の利器クルマも今や電気エネルギーへの転換期を迎えています。しかし、これさえも人間の文明の発達の再燃に過ぎないのかも知れませんね。それだけの設備やシステム構築には自然破壊につながる過程が有る訳ですが、その点はお互いに目をつぶって結果オーライとしましょうとの暗黙の合意でしょうね。本来は新しい設備や既存機能の改善で二酸化炭素を減らす事だけが目的ではなく、失くした自然環境を復活させる植林や土地造成への規制や河川や海の環境保護の方が優先課題だと思いますね。これまで人間が犯して来た償いは人間の手で償うしか無いでしょう。ホワイトカラーばかりの都会での机上プランは自然界に通用しませんね。
seto
脳科学者養老孟司さんが、霞が関官僚を1年、農村へ送り込むプランを出していました。毛沢東みたいな発想ですが、自然を学ばないと、言葉や概念。図式、統計を駆使して座卓学から国を動かせる勘違いを長いい間に渡ってやってきたわけですからね。あるのは自分の出世だけの省益。市民や地方の民の現状を見ようとしません。見たくないのです、見るとプランの変更を余儀なくされる。政治家もいかに次の選挙で甘い汁を吸えるか、そればかりです。最近、政治家の奥さんや子供たちも父親の権力や利権に吸い寄せられる人が多くなりました。大いなる自然を見て、その中で立って地球や国土を見て再考してほしいものですが、ないものねだり。後ろにいるのは破壊するゼネンコンと軍需産業です。税金以外に稼ぎどころがない民間企業って企業たる資格はありませんね。やってる仕事が恥ずかしくないのでしょうか?40年、営業で稼いできた私から見て異様な存在の企業です。
坊主の孫。
小学校の表には学校の畑が、裏には水田がありました。中学校では学校林がありました。生徒が総出で田畑仕事や林業よろしく植林や根刈り作業をしました。子供の頃から実体験です。まだ子供ですから遊び半分ではありましたが、良い体験でした。作業そのものだけでなく、ウサギを見つけたり、木の実や虫を見つけたり、お昼には自然の展望を見ながら手作りのオニギリで昼食です。都会の子供たちにこそ、このような経験が必要ですね。田舎の子供たちとの交流も含めて「町の子、田舎の子」なんて壁は要らないですね。大切な自然はみんなのものです。子供たちが植林した木に名札を付ければ、大きくなって、いつかまた自分の木に会いに来るなんて事もあるのではないでしょうか。大きくなった木を木材としての伐採も自分の手でなんてドラマチックですね。さらにはその木材を自宅の家具や調度品に利用するのも有りかも知れません。農林魚業にはそんな魅力も潜んでいますね。
seto
昨日、東京の積雪に子供たちが真っ黒い雪だるまをつくり、雪は楽しいと歓喜していた風景をみました。雪害のほうが多い雪ですが、天から降りてくる自然物に最初に反応する子供たち。大人はいつのまにか忘れてしまってます。自己都合で動いているからです。物流やビジネスで。文明の基礎にある自然物、木や鉱物や石や魚、植物(食べ物)がないと文明は成立しませんが、キリスト教が人間を動物の最高位に置いてからおかしくなりましたね。
広告マン。
雪害報道を「大変だね~」と見たり読んだりだけしている人達ばっかりでしょうね。自分に降りかかって居ないからでしょう。除雪展示会に何度か関わりましたが、これも官主導できれいごとばかりでさっぱり答えが出ません。これだけ雪に悩まされている地方の事を国を挙げて真剣に取り組む気は無いんでしょうか。勿論、都会組にはどうすれば良いのか分からないでしょうけれど、もしかしてとんでもないアイディアが飛び出すかも知れませんね。一部の地域や関係者だけで悩み諦めるよりみんなで知恵を出し合って解決の糸口を見つけたいものですね。官・学・民なんて言いますが実際は官は国、学は大学、民はゼネコンですから、税金を使っての利益主義ですから本当に良いものには生まれませんね。「利雪」なんて言葉も生まれましたが、利雪で潤っているのは電力会社で、天からの原価無料の大量の「水の元」を山に一旦浸み込ませて水力エネルギーとして使って居ますね。それにしても大雪の年でも電気料金は変わらず、むしろ年々高くなるばかりで暮らしを圧迫して居ますね。潤うのは会社とその社員たちばかり。
seto
雪国出身者も時間とともに、冬の暮らしを忘れます。首都圏に、霞が関に、政治家でもたくさん豪雪被害県から集まってるはずですが、知恵の出し合いに真剣さがないです。首都圏でたった5センチ10センチ積雪で大げさな報道ばかりしてますね。わざわざ出張旅費を使い、青森の豪雪を見学に行く記者もいて、(凄い・凄い)の連発。青森の関連テレビ局に撮影してもらえば済むものを無駄な経費を使い、仕事づくりをしていました。朝から晩まで除雪でも助ければいいものを。災害報道でもよく見られる報道のパターンです。電力でも保守点検しているのは北電興行と各地にある電気会社です。高圧電線に昇って作業をしている人に北電の社員はめったにいません。危険な仕事は下請けにやらせる構図は原発も然り、建築現場でも同じことが起きています。直接、自然と向き合わず、図面とパソコンに向き合ってます。そして正確な報告書ですね。現実は生の現実ではもはやなくなってます。