言葉によってできるコミュニケーシンはごく限られたもの。(松岡正剛)
「17歳のための世界と日本の見方」(セイゴウ先生の人間文化講義)の初めに、我々は誰でも言葉を使えばコミュニケーションができると思っている。本屋にはたくさんのビジネス書や読書の勧めであったり、教養をつけるための指南書もある。しかし、「我々は誰もが言葉を使えばコミュニケーションができると思っています。もちろんそれは大事です。しかし、身振りや動作やノックの仕方でもコミュニケーションは起こっている。いや、そういうところから文化は発生しているんですね。その上に言葉も乗っている。・・ひっょとしたら、言葉によってできるコミュニケーションはごく限られたものにすぎないかもしれません。むしろコミュニケーシンできないでいる感覚や気持ちや情報のほうがたくさんあるということに、最初に気づくべきなんです。・・言葉を使えばいつもきちんとちゃんとコミュニケーションできると思い過ぎることは、じつはたいへん危険なことです』(同著31p)
正剛さんがボランティアで障碍者の子供を背負って、これまでうんともすんとも言わなかった子供が第三コーナーでトップに立とうとすると背中で足をばたつかせて一緒に走っていることに気づく。彼と気持ちが通じた瞬間だ。
私もいろいろな職種の人と短い時間の会話、お茶を飲みながらの会話、妻との会話、隣近所の人との立ち話など一日、ずいぶん陳腐な日本語(と私は不本位に話している)を繰り返して嫌悪に陥ることもある。その一方、一年に1回くらいしか札幌に戻らない同級生や仕事の元同僚との静かなひと時が嬉しい。適度な沈黙もあって、その時間に過去のあれこれの事件や共通の知人の行方なんか思いながら、最近お勧めの本の紹介や子供たちや孫たちの話にしんみり入っていく。下戸で大して飲めない私のことを知っているので、長い時間、酒場に滞在せず、ホテルへ帰る。お互い、顔のシミも増えて白髪も目立つが沈黙の時間にも味がある、ホッケを食べながら生きている実感を再認識する。『何歳まで生きるのか?』『どうだろうな』『○○先生も膵臓がんで逝ったが、晩年円山の自宅へ行っても会ってくれなくて。クリスチャンになったのかな?』など他愛がない。『間』(ま)のない会話は『間抜け』と呼ばれてハシたない。
空白の時間なのだが、現代人は『空白を持つことを嫌っているようだ』。そういえば、空白を嫌うのは新聞紙と沈黙を嫌うのはテレビだ。びっちり文字で埋める新聞、言葉の速射と話題の転換で落ち着きのないテレビ。どちらもコミュニケーションとしては一方的だ。何もない、静かな時間であれば我に返れるのに、もったいない。
坊主の孫。
コミュニケーションで大事な事の一つに笑顔もありますね。或る知人の笑顔は心を癒してくれます。ですからこちらから会いたくなりますね。病は気からとも言いますが、気分次第では顔にも表れますから、知らず知らずの内に他人に不愉快な思いをさせている可能性だってありますね。言葉や文字もコミュニケーションツールでは有りますが、表情も大切ですね。
seto
笑顔はいいですね。これを目標にはしているのですが、そのときの気分が顔に出るみたいで、ずいぶん不愉快な気持ちを他人に与えていると思いますね。加齢とともに表情筋も硬くなって笑顔が出にくくなります。鏡で自分の顔を見てから外出が必要ですね。そういえば威張りん坊は笑顔下手ですね。そういう人、たくさんいます。