『負けない力」と『知性』について(橋本治)
『負けない力』(大和書房刊 2015年8月)という本。知性とは何ぞや?という問いの本で答えは『負けない力が知性である』という答え。
『教養主義的な考え方から脱するために』という章で繰り返し出てくるのだが、自分は(自分の中にあるのか、はたまた自分の外にあるのか)。自分の外とは学習して積み上げた知識であったり、自身の出身だったり、性別や学歴であったり、育ちであったり、自分の意見の根拠が外の権威に求める(○○が言っている)であったり。自分の存在理由をたえず外に求める生き方だ。したがって自己は柔軟ではあるけれど他人(他国人)から見たら『何を考えているかわからない』と気味悪がれる。
昔は中国の文化がお手本であり、幕末はオランダ、明治は英国・ドイツ・フランス・アメリカなど各分野でトップだろう国々の真似であった。当時の明治政府も、黙っていたらイギリスやフランスにやられる(植民地化されるから)手っ取り早くお雇い外国人を招聘したり、国費で有能な若い日本人を海外留学させたものである。敗戦後はGHQの政策でもあり、アメリカ文化一辺倒が続いている。
『知性がある』と『頭がいい』と『勉強ができる』。この三つは重なるところもあれば重ならないところもあって、一番の違いは『数値化できるかできないか』というところ。幼稚園からどっぷり公文式やらお受験と称して、また通信添削や学校の予備校化で親の収入を充てにしてOECD各国で最大の金を教育費を捧げる国になってしまったが、どうも『知性のある人が続々輩出している国にも見えない』のはどうしてか?
巷には『勝つために』とか『即戦力に』とか『効率的な企業経営』とか『他企業に負けないために、差別化するマーケッティング』の本が溢れるほど並んでいるが、この本は静かである。読者を煽らない。珍しい本である。『すぐにためにならないところがいい』。私たちは長い長い受験勉強時代を過ぎて、なお30代や40代や50代、定年後でさえ受験勉強文化を引きずっていると橋本治は指摘する。日本の学校教育の環境からではもともと知性の人はつくれない。
私の住む町はガーデニングで有名な町であるが、競ってバラ植えが流行った時期もある。見えない競い合うことで、いつのまにか町がガーデニングで有名になって観光客も来る。が、老化とお金は続かず下火に向っている。橋本治さん流にいえば、身分相応な花でいいのである。これ見よがしな人生でなくていいのである。筆者宅の地味な庭を見ながら、『これでいいのだ』と思わせる本であった。
『競い合いを促す。他人が持っているから欲しくなるよう競わせ』ないと物が売れないのは確かであるが、身からにじむような知性が入り込むことはできない。それが『知性のある人のすること』という提案が見えてくる本である。見えない人には見えない。だから、もともと『知性には関心の無い人、物にしか、お金にしか関心のない人』には無縁な本である。そういう本も世の中にはあってしかるべきである。100年以上、読まれ続けている本たちはたぶんそういう類の本かもしれない。
昔の少年。
教養も栄養も不足の時代に生まれた私などは幼い頃からまるで野生児のような暮らしに始まり、田舎ゆえに幼稚園なども無く、教育は小学校からようやく始まったので、都会の子たちに比べれば、教養はおろか知性など教わる環境でも無く、両親はと言えば野良仕事や山仕事に明け暮れ、子供の教育どころか全くの放任主義でしたね。放任=自由と言えば聞こえは良いですが、教養よりもその日の栄養の時代で、親も子も教育に対する情熱も薄かったように思えます。そんな時代も手伝って、当時の環境から知性など身につくはずも無く、暇さえあれば親の手伝いと悪さばかりの毎日でした。そのせいでか?成人してからは、他人様に対して大した悪さもしなくて今日に至っていますが、知性となれば未だに自信がありませんね。親から教わる事でも無く、自分自身で身に着ける事でしょうから、多くの経験を経て初めて身につくものでは無いかと思います。そう考えれば、高齢になっても未だ経験不足と言う事になりますね。
seto
ご両親の仕事ぶりを見よう見まねでなぞってきたこと、知性の萌芽ではないでしょうか?手をはじめ体で見に付けることが一番大事だと思います。母方のおばあちゃんは4人が嫁いだ娘たちを訪ねて、下着とお金を持って、札幌、室蘭と暮らしを心配して訪ね歩いていました。わがままな私の母親も「札幌駅の何番ホームで車両は何番に乗ってる」母親からお金と下着をもらい助かったと言ってました。すぐに室蘭へ発車して3女のところへ。子どもの暮らしをたえず心配して生きる母親たち。昔も今も変わりません。十分、知性的な生き方だと思います。これぞ教育ですね。