普通って何?
この場合、普通を平凡としても構わない。昭和26年生まれの筆者は札幌で一番のマンモス小学校で6年生を終えた。恐るべし札幌市立苗穂小学校。各学年10クラス、1クラス55人で6学年。全学年3300人だ。副担任もおらず一人の先生が全員を見るのだから、テキトーな監視で程よい自由さがあった。目立つ子供は3人で一人はNHKの少年少女合唱団に入り、お洒落な服を着ていたみゆきちゃん、新幹線工事をしていたお父さんの転勤で鎌倉からきたまばゆい白のトックリセーターを着た、語尾を上げて話す(ように聞こえる下町育ちの私たち)育ちの良さがあふれる少年、函館から来た蓄膿症の持病ながらプールで泳ぐと学年トップでクロールする勝田君。
私の偏見ではあるが、当時、女の先生のえこひいき、特に優れた能力や育ちの良さが前面に出ている子どもへの、えこひいきは誰の目にもはっきり映るが、別にそれが羨ましいとも思わない賑やかな6年生であった。しかも通信簿は絶対評価でオール5だらけ。中学に入るとクラスの10人はオール5の同級生ばかり。筆者が圧倒されたのは言うまでもない。しかし、絶対評価も小学校までで、中学からSSという偏差値が導入された。
通信簿の5は学年で15%、4は30%、3は40%,2は10%。1は5%くらいだったか。ともかく他人との比較の中で、自分がどの位置にいるのかという評価に変わってしまった。いわゆる相対評価という基準で、自分の点数が悪くても他人がさらに悪い点数なら通信簿ではそんなに悪くはならないということだ。なんだか、筆者の営業時代に毎月のノルマの数字が達成できなくても、自分よりさらに低い数字を出す給与の高い営業マンを見ていてほっとする自分を見るようである。
丸山昌男の『日本の思想』(岩波新書)でキョロキョロして落ち着きのない日本人(他人との比較の中で生きる、周りが気になってしょうがない)の標準的な生き方を模しているような気もするのだ。私は私、あなたはあなた・・ときっぱりした人生を送りづらい風土が、実はずっと長い間、この国の風土を律し続けたのかどうなのか?実はそうでもなくて江戸時代の文化興隆を見ると、むしろ近代のヨッロッパに接し始めた明治以降にキョロキョロする人間が増えてきたのではと思う。昭和や平成に・令和になってもこの傾向は変わらず、筆者のみるところ、加速度的に小さなことで、たえず他人との違いを強調する(こだわりという作為的な価値観)に普通を拒否する生き方を前面に出してしまう。
普通という言葉には、実は普通ではないもの(生き方)を実はしたいのだけれど、甘んじて普通であることに立ち止まってる自分に歯ぎしりしている姿も見えるのであるが、どうだろうか?絶対的な普通があれば表現したいのであるが、それができない筆者である。
坊主の孫。
同じ普通でも人それぞれ。つまりそれぞれの普通ですから、普通は同じでは無いと言えますね。言葉を変えれば、その人その人の普通はその人の個性ですね。それでも他人から見れば変わり者だったり、極端ですが天才にさえ見えるかも知れませんね。ご本人はそれでも普通のつもりですから、普通にも基準は無いと言う事ですね。また、普通の人は他人の事が気になって羨んだりもしますが、その時点で既に他人の長所や特技などから学ぼうとしますから、その都度成長している訳で、そして、その後は自分では気づかないうちに普通では無い人に変身しているのかも知れませんよ。いや、していますね。
seto
真ん中とか中庸とか5段階評価の3とか、普通というコトバもどうしても他人との比較から出てくる概念で困ったものです。自分も誰から聞かれても「普通うかな」と答えてますが、厳密にはわかりません。野球以外、テレビは全く見ないし、週2回の図書館ボランティアで遊んでいるし(きょうがイベントの日だ)、ブログネタの事件がないかなとデジカメ持っていきます。27人のボランティアと図書館司書が数人助けてくれます。一日だけのボランtェイアが9人もいます。上は94歳、下は51歳です。イベントは普通ではありませんが、年2回のイベントのために1年間、古本を整理していく作業は普通ですね。11月3日、数年ぶりで夫婦でキタラにコンサート行きます。帰りはどこかもレストランを探しています。日常と非日常の繰り返しですね。そういう特殊な日のために普通の地味な暮らしを続けているのかもしれません。
昔の少年。
マンモス校ですね。小学校は2組くらいでしたね。夏場は分校の子たちも遠い道のりを徒歩で毎日通学して居ました。お腹がすくらしく給食のコッペパンとマーガリンや脱脂粉乳のミルクなどでは当然足りずドカベン持ってきていました。それでもお腹が空くのかさらには餅をも持参して焼いて食べていました。帰り道は上り坂ですからね。その点、私は5分程歩けば学校ですし、校庭は放課後の遊び場として占有して居ました。競争心の無いのんびりとした田舎の学校です。
seto
札幌市内の小学校はどこも子供たちで7クラスから10クラスでした。一クラス55人を超える(転校も多かった)のもザラ。特に国鉄職員の子供たちが群れをなしていました。国鉄苗穂工場です。中学になっても最低7クラス。そこで偏差値導入されて、競争心煽られてしまったわけです。私としてはノンビリしていたつもりでもどこかで受験生をしていたんでしょうね。