私が亡くなったらコタンの皆と同じように葬ってほしい(英国人マンロー)
1863年にスコットランド生まれのニール ゴードン・マンロー。1888年エジンバラ大学医学部の外科を出てインド航路の船医になるが、体調を崩して1890年横浜でリハビリ。若いころから化石や考古学・人類学に強い関心もあって1898年初の北海道旅行。1905年横浜市三ツ沢貝塚発掘。軽井沢でも茂沢遺跡発掘。1907年北海道平取村を訪問、収集したアイヌ資料を王立スコットランド博物館に送る。この年にマンローは日本に帰化している。日本人の起源についても強い関心もあり、1908年「先史時代の日本」を自費出版。1916年北海道白老町で無料診療とアイヌの研究に入る。1923年横浜の自宅が関東大震災で燃えて資料焼失。1929年ロンドン大学のセリグマン教授からアイヌ研究を要請され、翌年二風谷でクマ送りの儀礼を映画撮影する。1933年に二風谷にマンロー邸洋館完成して定住を始め、モンローコレクション収集を開始する。これは後に北海道開拓記念館に所蔵される。1937年にはマンロー診療所を開設した。国内が軍国主義に傾く中。1939年北大北方文化研究施設で「アイヌの宗教と祈祷悪霊払いの儀式」を講演及び上映会をする。1942年二風谷で永眠。遺言は「私が亡くなったらコタンの皆と同じように葬ってほしい」。郷里スコットランドの風景に似た二風谷、アイヌの古い習慣を知る人が多い二風谷。日本人のチヨ夫人とともに暮らし、アイヌ研究をした。スコッランド国立博物館には約200点のアイヌ工芸品が所蔵されている。
マンローの出たエジンバラ大学、医学部時代、4つ年上にシャーロックホームズを書いたたコナンドイルがいる。交友関係は定かではない。
明治23年(1890年)に横浜に来てから昭和17年(1942年)79歳で二風谷で亡くなるまで52年間、日本に滞在し、後に帰化して激動の明治、大正、昭和にわたって日本に在住。日清戦争では従軍医師として志願したが、外国人として断られた。1939年にはマンローはスパイであるデマも流れた。1937年には札幌でヘレンケラーに会っている。アメリカとの戦争前にヘレンケラーが来日していた事実を見つけた。奥様のチヨさんは1974年軽井沢で亡くなっている。マンロー本人の遺言が愛してやまないアイヌの人と同様の葬儀をしてほしいということであった。NHK北海道で1本番組をつくれる主題である。
イングランド島はもともとケルト人が住んでいた。彼らの服装や様々な意匠にケルト模様がある。下の木綿衣のデザインに似ている。マンローやエジンンバラ大学はこれに気付いていたのではないかと想像する。
昔の少年。
北海道には昔から外国人との交流が有ったんですね。しかもアイヌの人達に理解を示し興味を持って研究調査と言うのですから、身近な日本人がしなかったところに着目し、その為に永住迄する情熱家だったんですね。アイヌの人達にも愛されていたのですね。日本で研究収集した資料が外国にある事自体にも驚きますね。アイヌについて外国人の方がいち早く理解していたとは驚きです。
seto
ケルト民族がヨーロッパやイングランド・スコットランド・アイルランドにたくさんいましたから、アイヌ文様の相似で親しみを覚えたのと、彼らの人懐っこさも嬉しかったのでしょう。山鼻に最初、移住してきた和人も初めての冬を過ごすのに、親切なアイヌの人たちの知恵を助けを借りたと言います。マンローはさらに医者でしたから、尊敬もされて素晴らしい時を過ごしたのでしょうね。いま被差別部落について何冊か本を読んでいます。縄文時代から始まる話です。壮大な差別歴史です。