ユダの福音書を追え!!!
銀貨30枚でイエスを売ったユダが、実は、イエスが最も深く信頼していた信徒であったという話が、書かれているのが「ユダの福音書」。ユダは裏切り者どころか、イエスはユダに言った「目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星星を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」。あらかじめイエスはユダに「私を裏切るように演技をしなさい」と書かれている。
新約聖書は「マタイ伝」「ルカ伝」「マルコ伝」「ヨハネ伝」4つを正統なる書と位置づけている。その他を外伝、さらに「異端な書」は抹殺する、焚書にする本もある。それが「グノーシス派」の本や「ユダの福音書」だ。発見は、エジプトの砂漠の洞窟でミイラが持っていた白い石灰石の「箱」に入っていた。盗掘で儲ける、生活の足しにする農民たちが「パピルス文字」を見たが理解できない。コプト語だった。1970年代のことである。
グノーシス派の文面には「ユダの福音書」がありそうな記述はあったが、正統なキリスト教会は「ユダの福音書」の存在を認めていなかった。それが26ページに及ぶパピルスが1600年ぶりに日の目を見たのである。しかも新約聖書で書かれたユダとは180度違う男として登場した。実はユダはポチという名前でも良かった。そのほうが、キリスト教世界で迫害されたユダヤ人にならなくて済んだかもしれないのだ。*グノーシス派とは、知恵や知識を最上に置いて、キリスト教における神も格下の存在に過ぎないとして、後にローマンカトリックから異端とされて迫害を受けた。
個人の名前ユダと民族の名前ユダヤ人がたまたま重なったがゆえに、イエスを売った、ローマに売った、イエスを裏切った男として新約聖書で繰り返し表現されて、悪の代表、地獄に落ちる(ダンテ 神曲で)まで嫌われる代名詞になってしまったのである。そしてイエスは磔刑を受けたのだと、繰り返し繰り返し1800年以上にわたってキリスト教国を洗脳(?)してきたのである。美術作品や彫刻、演劇も映画も全部この出観念を基調にして作られている。
ドイツでは現在でも名前に(ユダ)と命名することを禁ずる法律がある。知らず知らずのうちに刷り込まれた誤解や知識で、私たちの日常の言動が行われている。それを感じる事件である。ローマカトリックはこの「ユダの福音書」の存在は認めている。果たしてどういう教えに変更するのか、全く無視して従来どおりの通説で通すのか?作家遠藤周作の小説「白い人」のCDを聴いていたら、ユダの不当な扱いについて書かれているのを発見した。新潮社。平幹二郎の朗読は抜群である。聖書の逆さ読みである。善と悪の逆転として読む読み方だ。現実にはこちらのほうが多いかも。苛められっこは復讐するとか。〈左の頬を叩かれたら右を出すのではなくて)。遠藤周作の「沈黙」へ至るテーマであった。
カトリックという組織を見てみると、現代の国の官僚組織にそっくりだ。近代国家の起源より、カトリックが古いわけだから、近代国家はカトリック教会組織をモデルに官僚組織を作ったのではないだろうか。「ユダの福音書」が見つかっても、法王が「これまでのユダの解釈は間違っておりました。2018年1月1日より、新しい解釈を始めます」とは言わないだろうね。注:原典は読みづらい。 カトリックの組織図。
坊主の孫。
イエスだとかマリヤだとかには縁遠いので何とも言えませんが、残された遺品から読み解かれた物事にしても現代には理解しがたい事だらけですね。その時代には常識だったであろう事も今では受け入れがたい事も多々あります。あらゆる宗教独特の戒律は組織が拡大される事を予測して作られたのでしょう。教皇も一般信者も全ては同じ人間同士なのに、見事なランク付けに至るまでには相当の犠牲も出たのではないでしょうか。しかも現代まで、その伝統と掟は守られている訳ですから感心さえします。特にヨーロッパ各国では宗教色の強い伝統のフェスタなどが文化として守られて居る事にも感心しますね。宗教も文化ですから伝統を重んじる事は決して悪い事では無いと思いますね。考えて見れば、日本の祭りだって神の存在を崇める行事ですからね。神仏は実在しなくても古くから信仰心を受け継いでいる現代ですね。
seto
万物に神が宿れることを認める共同体は、穏やかだと思いますね。教会のヒエラルヒーは上に行くほど,神の声を聞こえる・伝えられるという勝手な理屈と組織存続を図って、普通は読めないラテン語を読み語れる司教をあがめたんですね。キリスト教が普及する前のアルプス以北は多神教でした。樹木崇拝もあって、さすがキリスト教会はそれを否定できず、仕方なくクリスマスという儀式・習慣をつくったわけです。世界中の宗教組織は権力闘争・遺産闘争に有れています。創価学会も統一教会もバチカンも信者数に違いがあれど、誰かが楽をして自分の欲望を最大限にしようという人物が中心にいると、終りの無い血みどろ、普通の社会の何倍も醜悪な泥沼の人間の根幹に根付く醜い感性や感情が出てきます。ユダの存在は、エゴの持つ根深さを語っていると思いますね。
昔の少年。
田舎では先ず毎朝神棚に炊き立てご飯を上げて拝み、次に仏壇にも上げて拝んで一日が始まります。村には観音堂と八幡神社が有りました。いずれも無人で、境内は子供たちの身近な遊び場でした。特に雨の日は誰が言うともなくお堂の中に子供たちが集まってビー玉やメンコ遊びに興じました。普段の管理や境内の手入れは村人たちが自主的に行っていましたが、年に一度の神事には、穢れ無き子供達だけで準備しました。そんな訳で田舎は多神教でしたね。田舎の母屋にはお坊さんを泊めるトイレ付の特別室までありましたし、超大型の仏壇があって村人たちの集会場にも成っていました。お経は誰でも上げれました。更に驚くのは、父親が若い頃には東京でキリスト教会のミサに通ったと言って居ましたから驚きました。考えて見れば宗教戦争など意味が無いですね。
多神教で何を信じようが、信じまいが、無理な勧誘や詮索さえしなければ争いなど起きませんからね。それにしても中東での戦争は根深いですね。理解できません。
seto
宗教戦争は横に必ず、それで儲けている商人や宗教関係者が隠れています。十字軍も物取りや泥棒が横行しました。純粋な信者は利用されていたと思うべきでしょう。第二次世界大戦も、太平洋戦争で儲けた(政府が支払った先の民間企業)人たちもたくさんいます。戦争を煽った新聞社は部数を伸ばしました。町内会長や校長先生も威張ってました。国防婦人会も。従わないと非国民でした。それにしても穏やかな村で、子供の声が聞こえてきそうです。そういう場所は「アジール」と言います。自由で何ごとからも束縛されない場所です。子供たちが集団で遊ぶのがいいですね。誰が採取してもいい森もそうですね。境界線を決めて、だれだれの土地と線を引く(税金徴収のため)不自由な時代。金だ金だ、俺が俺が、このとき楽しければいい。地球の表面がどこもかしこもです。ところで私のブログを香港の人が3月31日、4000回読まれていました。記録をつくってしまいました。いたずらだろうとは思いますが、当然、コメント欄も読まれていると思います。ロボットでないとしたら誰でしょうか?
アドマン。
度々の九州旅行羨ましいですね。飛行機をクリアしただけでも大したものです。離陸・着陸時は私も緊張しますよ。話し相手が居れば良いのかも知れませんね。もうどこでも行けそうですね。また戻ったらお土産話を楽しみにしています。
seto
もっと早くにパニック障害を克服していたら、博物館めぐりできたのに残念ですがね。飛行機+ホテルが安いですよ。自分で予約をまだできないので娘に取ってもらい、QRコードをi-padに送ってもらいます、そしてプリントアウト。再度自分のスマホにカメラで撮影しておきます。万が一を考えてます。プリンターを買ってよかったです。