ゴヤ

「マドリッド 1808年5月3日」266㎝×345㎝ プラド美術館 ゴヤ作

私の育った環境は、実名が当たり前の世界であった。高校や大学の合格発表も堂々と新聞に掲載されていた。生まれた子供の氏名や住所も新聞に載り、今ではお悔み欄でさえ希望者だけ掲載される(約半分しか希望しないと葬祭業者)。実名で生きられると言うことは、私の生きていた地域共同体が十分機能していて、何かがあっても隣のおじさんやおばさんが守ってくれる世間があった。

いつ頃からこの発表習慣が消えたのか?特に子どもが生まれると祝い品業者が営業に来たりDMの山、電話攻勢で若夫婦が参ってしまい、無くなったのはわかるが、それ以外は、別に発表しても無害と思われるのだが、どうだろうか。そうでありながら、警察や道庁・教員の人事だけはしっかり新聞に掲載される愚かしさ。これこそ必要のないもの。新聞を読む人が減っているから、いずれこれも届かなくなる。

そういう狭い話ではなくて、「匿名」って一体なんだろう?という話だ。一番の匿名性は軍隊かもしれない。ゴヤの絵でフランス軍に処刑されるスペイン人の油絵で、銃を撃つ側には顔がない。(ナポレオン軍だ)。撃たれる民衆は一人ひとり顔がある。攻撃する側には顔を隠す性質がある。ISISの顔隠し覆面も似ている。銀行強盗も目差し帽多いよね。

一対一の肉弾戦ならわかるが、武器が銃や爆弾やミサイルになると、具体的な武器を使用した人の顔が消える。消さないと人間として実行できない良心がまだ残っているのかもしれない。希望的観測だけど。ユニフォームを着ると性格が(思考が)変わる人も多い。男の場合はスーツとネクタイ、首から下げるIDカード、社章を誇らしげに(勲章のように)付ける人もいる。しかも集団で動いている場面が多い。企業戦士だ。

いずれ全て外す時が来る。それ以上に、私が気になるのは、彼らの使うビジネス会話の定型性だ。たぶんそれを超えるには、圧倒的な教養度の高い人や広い人間関係ネットワークを持つ人を横で観察しないと会得できないところだ。この部分は匿名ではあり得ない、具体的な人間関係そのものだから。

実名行為をたくさん積んだ後に、「匿名の世界に」入るなら問題が少ない。しかし、いま問題なのは初めから「匿名の世界に生きることを選んだ」ネット住人、SNS利用者だ。語り口や非難や侮蔑は字数制限もあって必要最小限の表現は達人でないと難しい。匿名の世界は攻撃的になりやすいから、次々傷つけごっこになる。そうなら、沈黙の方が賢いと思う。匿名の持つ攻撃性や毒気を吐かぬよう最大限の配慮をしようという平凡な結論に落ち着く。実名には責任が後ろに張り付いている。「・・・らしい。・・・という噂だ。・・・と言われている。みんな〇〇〇だ。」この表現には発話者の主体がない、身体がない。気をつけたい。

  1. 身分の低い発言力を抑圧された人々がお上に直訴できる唯一の目安箱もたぶん匿名で行われていたのだろう。実名なら口で言えるわけで、身を守りながら言えない事を言えるのは匿名しかない。しかし現代の目安箱はネットの書き込みで、誹謗中傷が非常に多い。個人攻撃するなら西部劇よろしく一対一で正々堂々正面切って討論すればいいのだが、正面切れない引け目を隠せるから卑怯にもネットに逃げる。気が付けば、そう言う僕も匿名だった。

    • そういえば、目安箱や落とし文(わざと批判的な文言を書いて道端に捨てておく)の習慣がありましたね。
      知られれば自分の命がないという切迫状況では実名は、危険行為です。大きな企業でも「犯人捜し」に血道
      を上げる社長もたくさんいます。スキャンダルが外部に漏れて大騒ぎ。官民問わずです。「噂の真相」という
      雑誌は、タレコミ記事から裏付けを取って記事化して数々のスクープを書きました。編集部が殴り込みをかけら
      れて編集長が危うく殺されそうになった事件も発生しました。森前首相が学生時代に逮捕されて前科1犯を書いた
      のもこの雑誌です。この事件から、個人情報保護法の成立が早まったと筆者は認識していますが・・・。

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