1939年10月、艦上爆撃機・艦上攻撃機の訓練を目的に宇佐市に作られた宇佐海軍航空隊。練習後は実践部隊に配属され、真珠湾攻撃にも参加している。1945年2月には、神風特別攻撃隊の中継基地になり、多くの航空機も宇佐に集合、154名が特攻出撃、戦死している。全員の氏名が刻まれた碑があって、戦死者の中に4人の北海道出身者がいたので撮影してきた。石見文男、石田力雄、高橋●男、大野幸成。一人一人に家族のドラマがある。ドキュメンタリー作家なら戦死者の家族係累を追いかけて戸籍を探して、インタビューするかもしれない。

宇佐海軍航空隊跡地には,碑のほかに爆撃機の格納庫がある。今でも農家が農機具を保管するところで使用している。小中学生が折った鶴が下げられてある。折り鶴は丁寧に管理されている。

宇佐の平和資料館には、ゼロ戦や人間爆弾(桜花)の実物も展示されていた。

ゼロ戦の操縦席

桜花

展示物や神風特攻隊員の墓碑を見ながら、「戦争は絶対にしてはいけない」という思いが何度も湧いてきた。

  1. ゼロ戦パイロットの弟

    私がお盆休みに帰省した時、クルマも運転しなかった元海軍飛行兵で運良く復員した兄に聞いた事があります。飛行機の操縦が出来るならクルマくらい簡単に運転できるんじゃあないの?と。兄曰く、飛行機は計器だらけでこんなもんじゃあ無いよと。さらに、訓練で慣れればどんな難しい事でもで来るようになるのさと。でも、もうごめんだね。二度と乗りたく無いよ。と。夜の空母への目視での着艦訓練が一番怖かったそうです。頼りは暗いライトと視力と感に頼る以外ないとも。復員後の兄は失くした青春を取り戻すかのように芝居や音楽に没頭し、地元のデパートの若社長と親しくなり劇団まで起ち上げて定期公演もするまでになりました。当時幼かった私は演劇の舞台で演じる兄の別人(役柄)を見るのが嫌でいつも楽屋で遊んでいました。最後まで好きなように生きて亡くなりました。戦争など無ければ、もっと違う人生を送れたのでしょうね。戦争は始めても途中で潔く敗戦を認めて休戦すればあれだけの犠牲者を出さずに済んだ筈ですね。高校生の時に尋ねた兄の家で、兄たち特攻生き残り連中が札幌は桜舞い散る札幌は円山西町の石焼ジンギスカンで酒を汲み交わした時の話を聞き、その時に兄の命令で福井市内の精肉店で羊肉を仕入れて来て初めて知ったのがジンギスカンの味でした。何と、ジンギスカンの本場札幌にまさか私が移住するとは?その時は考えもしなかったですね。西町を通るたびに、私には優しかった親子ほどの歳の差の兄を思い出しますね。

    • とにかく戦争だけはしてはいけない。勝っても負けても思い出ぼろぼろ、生きてるだけ奇跡の世界です。現実もそうですが。母の弟が自衛隊の航空機パイロットになりたくて頑張りましたが、視力で落とされたと母が言ってました。母艦に帰ることできず、たくさん特攻で亡くなった。生かせる方針ではなく、殺す方針を平気で策する国家っていったいなんでしょう。兵器と軍人が日常生活に入ってくるとろくなことにはなりません。パレードなんて吐き気がします。私が異常なんでしょうか。お兄さん、それでも生きかえって好きなこと少し、食べたいもの食べれて良かったですよ。日露戦争で沈んだ客と貨物船の船が80メートル海底から撮影した写真が掲載されてました。1000人が亡くなっている。第二次世界大戦末期、南樺太から逃げてきた客船が留萌沖で3隻沈められました。道庁本館地下に詳しく書かれてました。海の中に死者がたくさん沈んでいます。

  2. ゼロ戦パイロットの弟。

    私がお盆休みに帰省した時、クルマも運転しなかった元海軍飛行兵で運良く復員した兄に聞いた事があります。飛行機の操縦が出来るならクルマくらい簡単に運転できるんじゃあないの?と。兄曰く、飛行機は計器だらけでこんなもんじゃあ無いよと。さらに、訓練で慣れればどんな難しい事でもで来るようになるのさと。でも、もうごめんだね。二度と乗りたく無いよ。と。夜の空母への目視での着艦訓練が一番怖かったそうです。頼りは暗いライトと視力と感に頼る以外ないとも。復員後の兄は失くした青春を取り戻すかのように芝居や音楽に没頭し、地元のデパートの若社長と親しくなり劇団まで起ち上げて定期公演もするまでになりました。当時幼かった私は演劇の舞台で演じる兄の別人(役柄)を見るのが嫌でいつも楽屋で遊んでいました。最後まで好きなように生きて亡くなりました。戦争など無ければ、もっと違う人生を送れたのでしょうね。戦争は始めても途中で潔く敗戦を認めて休戦すればあれだけの犠牲者を出さずに済んだ筈ですね。高校生の時に尋ねた兄の家で、兄たち特攻生き残り連中が札幌は桜舞い散る札幌は円山西町の石焼ジンギスカンで酒を汲み交わした時の話を聞き、その時に兄の命令で福井市内の精肉店で羊肉を仕入れて来て初めて知ったのがジンギスカンの味でした。何と、ジンギスカンの本場札幌にまさか私が移住するとは?その時は考えもしなかったですね。西町を通るたびに、私には優しかった親子ほどの歳の差の兄を思い出しますね。

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