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人間は3歳ころから嘘をつくらしい。アメリカで3歳児数人を部屋に入れて後ろに置いたオモチャを見てはいけないよと言い、その模様をビデオで録画。確かめると90%が見ていたのに真実を告げたのは38%。言語能力が発達してくるのは3歳くらい。嘘をつくことは人間が言葉の覚え初めに比例していて、人間の本性ではないかと思うほどだ。ある人は本能だと言う。嘘と見栄と言語の取得と、時間的な発生の順番ってあるのだろうか?見栄を張るために嘘とつくのが多いけど、言語はどう関わるのか?

私たちは「嘘つきは泥棒の始まり」と教えられたが、嘘を言うのが本性だとしたら、すべての人間は実は泥棒かもしれないという論理になる。私も長きにわたって口先商売で自虐的な言い方だが、給料泥棒をしていたという見方も成り立つ。

考えてみれば、どの宗教も「盗むことをしてはいけない」となぜ戒律を立てたかというと、もともと人間は他人の物を盗むように生まれてきているから早くから、盗みの禁止をしておかないといけない存在なのかも。そういうことか。どうりで、広告営業をしているときに、そんなに効果のない企画なのにお金をもらう仕事に後ろめたさや自分が泥棒になった気分の日もあった。

「嘘つきは泥棒の始まり」ではなくて「言葉を使うことは泥棒の始まり」かもしれない。言葉を使って生きるから、生きることは盗むことなのか?盗みをしないと生きていけないのかもしれない。結婚も相手の家から女を盗む行為に似ていて、それで中和化するセレモニー(親戚縁者への振舞をして)が始まったのかもしれない。そうしないと人間の再生産(子ども)ができないから。

しかし、すべての人間が泥棒だとしたら身もふたもない話になる。「あいつは口達者だ」とか「ペラペラお喋りばかりして」とか「口八丁手八丁」。口についてあんまりいい諺はない。「口が滑る」「口車に乗る」。もちろん、この場合の口は言葉だけど、日本人は本能的に言葉は嘘と感じていた節がありそうだ。嘘と知りつつ演じるなんてずいぶん器用な国民かもしれない。どこかで私たちは自分の喋る言葉や書き言葉もそうだけど、テレビや新聞記事の見出しや他人との話、読んで感動した本の数行の真似をしているように感じて自己嫌悪に陥ることはないだろうか?したがって、オリジナリティあふれる人生はそうそうあるものではないということだ。

それは信者が教祖さんの言葉を反復する、真似る、盗む営みに近いと思うがどうだろうか。しかし、これは別に日本に限らず、どこの民族や国民もはまっていることだとしたら、一体、個人って何だろうという疑問に至りつく。もしかして、これは職人の世界(師匠と弟子)、学者の世界(恩師と弟子)、宗教の世界(預言者・預言書と信者)、普通の企業で働きだすサラリーマンやOLも、生きていくということは誰かの観念の屋根の下に覆われ・親族の保護下でしか生きられないのかもしれないとも思うのだ。さらに、教祖や師匠も恩師にも預言者にも先行する原型の師がいたら、恩師ははるか彼方へ消えてしまう。

参考書籍「ソクラテスはネットの無料に抗議する」日経プレミアム ルディ和子

  1. 人間の世界も全ては嘘と真似で出来ているとも言える。シンガー・ソング・ライターが作詞・作曲・ヴォーカルを一人でこなした場合、それはオリジナルと受け止められる一方、シナリオは真実ではなく空想や仮想だ。芝居も面白可笑しく演じなければ観衆は楽しめないが、それも真実から逸脱したあり得ない世界であったりする。映画だって空想・SF・CG・3Dなどあらゆる技術や演技は現実ではない。真似は盗むことでもあり、師弟関係では僕の場合だが「教えないから盗め」と言われた。著名な画家も先達の作品の模写から始めているし、作曲家に至っては成りすましまで登場した。国対国も腹の探り合いで真実は判らない。普段の生活でもウソは方便で丸く収まっている事もある。ウソも真似も盗む事も言葉としては悪いが、使い方によっては便利なものでもあるが間違った使い方をしない事だろう。

  2. 芥川賞だの直木賞だの世間を賑わしている小説なども実体験からアレンジしたり、他人事を描いたり、勝手に想像したり、真実ではないモノがほとんどだ。書物にしても書き手が真実としても読み手が真実と受け止めなければ平行線だろう。著名な作家はもしかして3歳ころから大ウソつきの少年・少女だったのかも知れない。瓢箪から駒でもないが、オオカミ少年が成長して大物作家先生になっている事もありかと。このように嘘が本当に化ける事も沢山あるのでは。しかし、幼い時についた嘘は何時になっても覚えているものですね。「あの時は、ゴメンナサイ!」

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