自分を見てほしい!?
昨日の十勝の水害の記事を読んだ元道庁農務部勤務の知人から十勝に限れば食糧自給率は1100%だとメールがありました。さらに全道の自給率も200%であると訂正のアドバイス。
「私たちはパンだけでなく、バラも求めよう」(ウィリアム・モリス)。「暇と退屈の倫理学」(国分功一郎 朝日出版社)。人類の祖先たちは獲物を獲得したり、木の実をたっぷり集めたら、残りの時間をどうやって過ごしていたのだろうかと考えることがある。
サバンナで獲物を捕獲して食べた後、昼寝にいそしむライオンたちを見て「なんて充実した人生を送っているのだろうか」「あの満足感や自足感を漂わせている」「死ぬ時も抵抗なく静かに死んでいく。子供のライオンが他の動物に捕獲されて食べられても、まだ残ってる子供を連れてよそへ行く」シンプルで素敵な生き方だと感嘆するのは私だけだろうか?別に動物だけでなくて、庭のアリやブルーベリーの実をメスが食べながら交尾するハチを見ていても、その交尾時間の長さに驚嘆しながらも、自然は凄いなと改めて思う。
ツナギトンボも上空を飛びはじめ、台風接近ながら、独身のトンボは低空飛行で庭の竹の上に止まっている。そういえば独身のときにトンボを見て、早く結婚してツナギになって子供を作れよ・・と思ったこともある。しかし、人間と違って彼らは「自分を見てほしい」と思いながら生きていないのに感動する。
死が来たら黙ってそれに従い、周りから「ああだ、こうだ」と言わせない。熟過ぎて落下したベリーの実をスズメたちは取り合っている。芝刈りをしたら土から這い出す虫たちを食べにまたスズメがやってくる。私もスズメだったら、人間界の言葉も覚えず、学校へも行かず、試験もなく、就職もなく、年金がない代わりに親切にも鳥台を置いてくれる家もあり、水差しまで用意している家もあるから生き易い。
庭で彼らが戯れてるときは、できるだけドアやカーテンを開けないよう気を遣う。食べて交尾して子孫を残すだけの営みだけど、こういう行為がアフリカやアマゾン、東南アジア、シベリア、アメリカ、ヨーロッパ、日本国中で毎日繰り広られてる。
テレビをポンとつけると「私を見てくれ、私はこう思う、私の芸を見て評価して、私の作った新しい天気図を見てね、私のもの知り具合を心に留めてね、僕のホームランの凄さを見てくれ、どうだオリンピックのメダル見てくれ、これも皆さんのお蔭だ、息子の不祥事に足がふらつくお母さん女優etc」キリがない。鳥や虫や動物たちの「私を見てね」のない人生が素晴らしく思えるほど、他人の評価に毒された人生を送ってきたのかもしれない。さて、これからどうしたらいいのだろうか。
「暇と退屈の倫理学」が奥が深くて、再度感想を書く予定です。パスカルは人生すべて暇つぶしと皮肉ってます。ほとんどの哲学者は暇や退屈、倦怠について考察してます。(部屋でじっとできない人間の性<さが>なんでしょうか)。退屈の解消としてレジャー産業が存在するともいえる。
自然との共生。
北海道に来て初めて知ったアイヌ民族の事。アイヌの人々は自然の恵みに感謝を捧げながら暮らしていた。和人との戦いや交流が盛んになった後期の事は良くは知らないが、農作物も栽培したのだろうが、基本的に狩猟民族的な暮らしをしていたのだろう。それだけ、かつての北海道をいはじめ彼らの居住地区は自然の恵みが豊富な土地柄だったともいえる。現代の消費社会は必要以上に求めたり、挙句の果てに廃棄処分したりが常態化してしまっている。毎日出るゴミの山。消費のために生産される、大量に廃棄される塩化ビニールや発泡スチロールの包装資材によって焼却場から出る有害なダイオキシンなど、自然界を汚染する最悪のサイクルが繰り返されている現実は長く続いている。昔のアイヌの人々の暮らしにのようには戻れないとしても、後世に生きる私たちに、彼らの教えこそ、今になって身に染みる思いがする。
土間と炉端。
暇と言えば、農閑期。積雪の多い冬場は戸外での作業はできない。田畑での農業も、山林での伐採や炭焼きも深い雪で覆われた冬は、動物たちの冬眠のように、じっと耐えて春を待つしかない。田舎には大きな土間があった。田の字に間取りを例えればその四分の一が土間だった。その土間が冬場の作業場になる。石の上で藁を叩いたり、草履を編んだり、餅をついたり、室内作業場だ。家の中には囲炉裏があって、その周りに家族が集まる。ただ黙々と、秋に蓄えた薪をくべる父、煮物を作る母、猫と戯れる子供たち、こんな家屋は今の時代には皆無となった。そんな暇をつぶす居場所もない。
昔、昔の少年。
人間だって自然の中の一種の生物に過ぎないのに、我が物顔で威張って生きている。親子連れがわんさか詰めかける動物園も動物から見れば、どう思われているのだろう。すべて人間が支配しようとする象徴のようにも思える。人間の中でも、住んでいる地球さえも破壊する輩もいて、お互いに憎みあい、代表者が時々集まり協議するが、そこでも私利私欲の意見ばかりで、平行線のまま、まとまらない。人間以外の動物たちにも劣る醜い領土争いや、脅しのミサイル発射が日常的に行われている。退屈だった太古の昔は人間ももっと大らかに生きていたにちがいない。