不寛容は、全世代共通では?(ある知人)
許せば済むことを咎める、クレームをつける老人が多くなってきたことを知人にメールしたら、「不寛容は、全世代共通では?懐と心の余裕がなくなってきている」と返信。
ブログで何回かキレル老人のことを書いた私だが(キレル老人で検索)、40代の彼の見立てでは、「全世代共通」と見る。怒るタイミングを失して、妻から「子どもへのしつけがなっていない」と昔から叱られてる私にしてみれば、穏やかに人生を送りたいとは思うが、時々、こちらをむっとさせる言動が妻から出ると、若い時ほど我慢強さがなくなってることに気づく。そこで大事なのは、身近にいる寛容な人を探して少し観察することだ。どこにそんな人がいるだろうか?
私が在籍した数社の企業や周辺の会社のあの人・この人を具体的に思い浮かべるが、どうも尊敬できる寛容さにはほど遠い。尊敬できない寛容さの人はたくさんいる。定年前の人や無気力な人、「あとは野となれ山となれ」で生きてる人。どうも真剣に生きてる人は怒りっぽい印象だ。叱り上手、そしてすぐに忘れる、最後はフォローする。概して能弁で話し上手は「寛容」な人間に近づく可能性大ではある。そして多少の自虐や韜晦も助平心も併せて相手に伝える。
しかし、ここぞという決断のときは孤独に強くないといけないから、寛容な人間も(自分には厳しい人)でないと務まらない。しかし、寛容な人間のモデルがいるとしても、咄嗟のときの言動が寛容になるかどうかわかったものではない。遺伝子中、「寛容な遺伝子」ってないものなのだろうか?おっとり育ってる人もいるから、それは単なる環境のせいなのかどうなのか?
無謀な権力者がいて、やりたい放題をしたとして、周りが(寛容に)それを100%我慢してへらへらしていてもいいものかどうなのか。寛容というよりも、従順なロボットになっているという別次元の話になってしまう。極論を言わせてもらえば「人間が壊れた世紀になってしまった」とも言えて、下手したらネアンデルタール人より人間レベルが下がってるのではないかと思うばかりの事件が多発している。ネアンデルタール人は家族間で殺し合いはしない。
犬も食わない。
キレたくないが、理不尽な言動にキレさせられてしまう。売り言葉に買い言葉よろしく、こちらがキレ返せば収まるどころか、結果として火に油を注いでしまう。くすぶって鎮火するまでには相当の時間とどちらかの寛容さが必要だ。夫婦喧嘩には理屈や筋は通らない。通るとすれば我慢くらいか。しかし一方的に我慢を通し続ける人生も情けない。一層ケリを付けて離婚などとなるケースも多い。これも一つのキレた結果だろう。兄弟や親戚・家族にも離婚者は多い。幸せを求めて、相手の欠点も認めて結婚したのだろうが、人の性格は、そう簡単には変わらない。今日もどこかで、夫婦喧嘩が勃発していることだろう。買い言葉にキレて大事に至らなければ良いが。
キレの連鎖。
先日、郵便局での出来事。ロビーに置かれた公衆電話で話していた老人が、急に「オィ!早く言え!ちゃんと喋れないのか?オマエ頭悪いのか?馬鹿か?」と、真っ赤になって怒鳴り出した。血圧が若干高い僕は、他人の事ながら心配もしたが、周囲は凍り付いたように一瞬静かになった。彼が周囲に注目された瞬間だ。しばらくして皆んな無視し始め、元の空気に戻った頃、彼も消えていた。こんな場面によく出くわす。余程、腹に据えかねたのだろうが、発散してスッキリしたのか、悶々と燻り続けていたかどうか?でも、きっと相手は反論できない立場の人間なのだろう。そんな人がストレスを抱え込んで、また自分より立場の弱い人間に発散したとすれば、キレの連鎖は年齢に関係なく延々と拡大していく。ストレスが貯まる職場や環境に置かれた人達の発散の方法が他人に危害を及ぼさなければ良いのだが。寛容とは我慢なのか?それも疑問だが。
逆ギレにも沈着冷静。
逆ギレもある。クルマの駐車場での事故で自分がぶっつけていながら、被害者を畳み込むように高圧的にキレる。先ず自分の立場を確立しようとするが、どこかで必ずボロが出るものだ。近所の奥様が駐車場でバックしてきたクルマにフロントのフェンダーにぶっつけられた。相手は先に交番で、お互いに動いていたと調書に。ところが近所の警察の退職者の人が奥様の事故車を見たら、その傷で、被害者のクルマは静止していた拠を見てくれたそうだ。事故処理の警察官は調書の書き換えを面倒がってはいたらしいが事実は曲げられない。今ではドライブレコーダーも普及して、逆切れも通用しなくなった。機械はいつも冷静だ。