濃密過ぎる人間関係と冷たい関係。
先日、2メートルに伸びた庭のブルーベリーの樹を下校途中の小学生が見つけて『食べたい』というので『自分で探して食べなさい』言うと、わっと庭にランドセルを放り投げて5人の小学生と楽しい時間を過ごした。『土曜日なのに休みじゃないの?』『演劇鑑賞なんだ。なんだっけ?』『ハウルとかなんとかいったっけ』。
あそこにあった、ここにあった。大声を出して久しぶりに庭は小学生の声で響いた。女の子は手のひらを出して、ブルーベリーの実を頂戴と言う。面白いのは男の子は樹木に入り、自分で探す。女の子は舗道で筆者が採取した実をくれるのを待つ。安全な人生を、上手に世渡りしていくらしい女の子にも見えてきた。男の子は突っ込んでいく。大昔もこういう役割分担だったかもしれないとふと思った。
樹木の1本がこんなに小学生を生き生きさせる姿を見て、教室内のボス的な人間が支配する空間、教師が絶対者になるかまたは生徒の一人になったような同質空間かは分らないが、どちらにしても濃密過ぎる人間関係に疲れているのではないかと想像する。
家族関係も他人を入れない、近所の人が干渉できない空間を作り、親と子供だけの濃密空間ができあがってるような気もする。私の子供の頃は信じられないだろうが、平気で友達の家へ上がり、そこの親の許可もなく、冷蔵庫を開けたり、ちゃぶ台に置いたお菓子を食べた。隣近所のおばさんがお茶を飲みに入ってきたり、地域で子供が育っていて、誰がどこへ行き遊んでいるとか勉強しているとか、ときにはあそこでアイスクリームを盗んでこっぴどく叱られて親父から殴られた話も多い。
私も10代末(20代になっても)友人の家に勝手に泊まりにゆき、朝風呂に入れてもらって朝ご飯をごちそうになり帰宅したものである。いまでも会えば笑い話になっているが、そういう他人と笑える付き合いがあった。どこの家も外に開かれていた。豆腐一丁買うのに市場から母は帰ってこない。豆腐屋のおかみさんと世間話に夢中だ。コンビニで世間話でも始めようものなら、後ろで待つ次のお客の迷惑になる。地方のコンビニではまだ世間話は通じるが。
最近のオフィースは私語厳禁が多い。シーンとしている。パソコンを打つ音が気味悪く社内を占める。私なんか誰からのメールのない日があるから、『シン・ゴジラ』批評を読んだり、自分の明日のブログに手直しを入れたりする。私は昔ながらの人間でメールも嫌いではないが、喋る方が楽しい。
気の合う人なら3時間でも4時間でも飽きない。その日のためにいろんな勉強をしたり、映画を見たり、話題づくりもする。濃密な人間関係が息苦しい世間をつくる一方で、私語禁止みたいな空間も同時併存する。これでは心身のバランスを崩す社員が続出する。HOTとCOLDを同時に呑んでるのだから。そこから疑心暗鬼も生じていいことは一つもない。トリックスターが必要なわけである。彼はそこを混合して混ぜてくれるから。
実のなる木。
我が家には小学生が3人中学生が一人がいて、毎日が騒々しい。一人に何かを買ってあげればほかの3人が黙っちゃあいないから、簡単に物も与えられない。みんな平等にあつかってあげなければ、子供の心は傷つきやすいから大変だ。いつか庭にサクランボの木を植えて今では実をいっぱいつける大きな木に育った。今年の春も子供たちは大喜びで庭でサクランボ狩りを楽しんでいた。木の実は子供たちには大人気だ。間もなくリンゴも収穫期になるので、余市のリンゴの木を一本買っておいた。子供たちも今から楽しみにしている。
想い出。
少年期に田舎で育った僕は、父が山から採取してくる木の実が大好きだった。秋になると「アケビ」も、「ヤマブドウ」も、うまかった。「ナツメ」や「グミ」、「スモモ」、「栗」、「キノコ」もいろいろ食べた。中学の裏山には「野いちご」がいっぱいあって、休憩時間に友人たちと「イチゴ狩り」を楽しんだ。木の実が豊富な田舎での楽しい思い出は、今も一生の宝物となっている。
国際井戸端会議。
昔と違って、暮らし向きも変わったせいか、他人に干渉しなくなりましたね。干渉されたくないとも。「小さな親切、大きなお世話」と言う訳で、親切心も仇になる事もありますから。相手のご機嫌を探りながらの接触しか方法はありません。深入りすれば嫌われますからね。時代は変わって、皆、忙し過ぎるので、じっくり井戸端会議とやらでお話しする事も無いんじゃあないでしょうか。こうなれば、もう、暇な人だけが寄り合って、時間など気にせず、いくらでも安心してお話しする場「国際会議場」ならぬ「井戸端会議場」があればいいのかも知れませんね。今では病院の「待合ロビー」くらいしかありませんからね。そんなところでの話題はきっと「病気」の事ばかりでしょうが。
高台と平地の格差。
関西系の家族を持つ我が家では、隣近所とのお付き合いは盛んです。今、こうして地下室でコメントしている時も、二人の主婦が来ています。昔から我が家は「溜まり場」になっていますね。北区にいた時には市役所の公務員、大工の棟梁、工務店の社長、消防署長、コンビニの経営者、クルマの整備工場の社長、カメラマン、丘珠のパイロット、印刷会社の社長、などいろんな人とその家族が我が家に出入りしていましたね。一緒に温泉に行ったり、海水浴やキャンプしたり、麻雀に興じたり、小旅行したり。お蔭で、喋らなくて「言語障害」かと心配していた娘も、いつしか社交的になりましたね。でも南区の高台に転居した時は、さすがに、付き合いは両隣くらいになってしまいましたね。何しろ周囲は大学教授やら大企業の重役やら社長さんや弁護士先生たちで、当時サラリーマンだった僕とは住む世界が違ったのでしょうね。お高い街とは住みにくいものです。今は平地に降りて居ますから人間関係もやや広く回復中です。
いい奴ほど早死にする。
仲良しのカメラマンが独身時代には、僕より先に我が家に帰宅して夕飯食べて、風呂に入ってTVを見ているところへ、残業の多い僕がくたびれて帰ると、彼が「いらっしゃい!」と。まるで彼が家主で僕が間借り人のようだった。彼は我が家に電話を掛けて「ママ、今日は〇〇が食べたいなぁ」と注文をしてからやってくる。それほど図々しい奴だったが、スキーなど遊びにもよく一緒に出掛けた。そんな彼の主目的は実は遊びではなく、ライブラリーの撮影だったのだ。或る時「セスナに乗らないか?」と誘いに来た。これも「空撮」の仕事だった。彼はいつもカメラは手放さなかった。そんなプロフェッショナルな彼も、つい、この8月の末に胃癌で亡くなってしまった。いい奴は早死にするとは本当らしい。そんな彼に比べて、健康な僕はどうやら?それほど「いい奴」でも無さそうだ。
他人からパパと呼ばれた男。
その昔、なぜか中学の下級生からは「隊長!」と呼ばれて慕われた。中年になってからは、廻りの遊び仲間からは「パパ」と呼ばれていた。「あんたたちのパパじゃあないからね!」と言っても、どこに行っても「パパ~!」と呼ばれて、ヒネた大きな息子たちに悪い気はしなかった。あのころの悪ガキたちも成長して、みんなそれぞれの事情で、フィリッピンに移住したり、農家を継いだり、営業所の責任者になったり、離婚したり、そんな関係も、バラバラになってしまった。時代とともに人間関係もどんどん変わっていく。