ある人と、死ぬ間際に最後に何を食べたいかという会話になって、そんなことを考えたことがなかった筆者なので書いてみる。彼は7年前に胃がんで全摘出をした73歳。もう完治したようだが、同僚たちが次々に物故していくので『最後の飯は』という話題になったのかもしれない。


イエスキリストの最後の晩餐が頭をかすめたかもしれない。調べてみると、晩餐メニューは『無酵母パン』と『ブドウ酒』一説には炭火で焼いた魚だとか。それはどうでもよくて私たちが食べたいものだ。子供の頃は病気になると『何が欲しい、食べたいものがある?』と母親から聞かれると『桃の缶詰』と答えた。シロップの入った甘い・柔らかい桃、夢のような食べ物であった。同世代に聞くと、桃の缶詰が多い。


先日、三省堂書店内の喫茶室で季節限定で『ピーチとパンケーキ』の組み合わせメニューがあって飛びついた。私はやはり『桃の缶詰』で決まりだ。この結論は、それぞれの人生の中で一番美味いと思った食べ物で身近な食品(すぐに家族が買ってこれる)を選ぶような気がする。中には、それを誰と食べるかに関心がいって、食べるものは何でもいいよという答えになりそうである。


それにしても『最後の飯』とはテレビドラマや映画の題名になりそうなテーマではある。『最後』という言葉にアレルギーを持ってしまう人がいるかもしれない。病院で最後を看取った88歳の母を思い出すが、生前よく口にした『なかなか思うように死ねないものだ』という言葉が耳を離れない。いったい何を考えていたのか、いまもってわからない。そこでたとえば『母さん、何か食べたいものがある?』と聞いたら筆者の予想は『何もいらない、少し水をちょうだい』と言うような気がする。塩気のあるオニギリが好きだったから、梅のオニギリを注文したかもしれない。


要はそんなに食べ物の種類にあれこれ、最後は言わないのではないかというのが結論だ。最後の飯という題名そのものが、生きてる人間の傲慢さ、余裕のような気もしてくる。最後は家族の誰かに手を握られていくのがベストで、最後の飯はどうでもよいということになってしまった。戦場で飢えて亡くなった兵士たちを思うと食べるものがあればなんでもいい。戦争のモノクロドキュメントや大岡昇平『野火』を読むと、そういう気持ちになる。現代は食についてはずいぶん贅沢な地平に生きている。それでも『母子で餓死していた』ニュースが札幌であった。現代もそういう意味で『生きる戦場』のようにも見える。最後は美味しい空気をいっぱい吸ってから逝きたいものである。

  1. 「最後の爺さん」

    最後の事は余り考えたくない。いや?考えないよう避けているとも言える。最後になれば意識も薄れて食欲もなくなるのではないかとも思うし、元々、「食」や「飲」に特に興味を持たない性分なのでイメージすら浮かばない。強いて言うなら、近くのコンビニにもある、箱入り(6本)の「井村屋のあずきバー」とでも言いそうな気がする。小学校低学年の時に隣のおばあちゃんに、お小遣いをもらって頼まれ、隣の隣の隣町へ独りで列車でお使いに行く時、必ず駅前で買った一本の「あずきアイス」の味に似ているからだ。最後はお腹を満たすのではなく、水分を少し補給する程度のアイスバーでいいかな?と。家族で井村屋のあずきバーを舐めながら最後の晩餐?いや「最後の爺さん」ってのはどうだろうか。

  2. 最後の姿は誰にも見られたくない。だから友人の通夜には行っても、告別式には参列しない。お棺の中の死に顔など確認したくないからだ。自分もそうされたくないから、好きな「梨の実」など少しだけ持って、象や猫のように秘密の墓場に消えて逝ければいいなぁ・・・といつも思っている。自然消滅と言う訳だ。残された者たちが探しまわって迷惑にならなければの話だが。今朝も朝刊には立派なガーデン付き室内納骨堂の大きなチラシが折り込まれている。納骨堂使用量と墓石代210万円、年間管理料および修繕費別途、などと。まるでお墓のマンションよろしく最後までお金が掛かるビジネスと言う訳か?。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です