私たちはどこから来たのか?(隈元浩彦著 毎日新聞社)
ブログで何度か書いたが、20万年前に誕生したホモ・サピエンスがアフリカ大陸から中東へ4万8000年前に渡り、日本列島へは①シベリア・サハリンルート②朝鮮半島ルート③南洋から海の道(船で漕ぐか漂流で)を渡って来たルートのほぼ3つの道で日本列島に住み着いた話は何度か書いた。
長い縄文時代を経て弥生時代に向かうわけだが、きょうは人口数のことである。新しい学問で古代の人口数を割り出してる人がいる。日本列島に具体的にいったい何人くらい住んでいたのかという記述がこの本に書かれてあった。5500年前の青森三内丸山遺跡は村人口は500人。当時は縄文晩期に当たるので人口数は76000人。縄文時代の中期が26万人もいて、後期が16万人と人口が減って、縄文晩期では7・6万人。この減少原因はチフスやハシカの疫病ではないかと言われている。
注目すべきは縄文時代には東日本の人口が西日本の約8倍の人口数なのだ。気候や狩猟や木の実など東日本が住みやすかったことがうかがえる。ところが、突然、弥生時代になると人口が約60万人に急増する。人類学者はこの時期、朝鮮半島から何かの事情で日本列島へ大量の移住民が来たとみている。彼らは近畿を中心に住んだ。それ以降、日本列島は近畿を中心に同心円で文化が伝播、人が移住していく構図ができる。もちろん出雲地方にもたくさん渡来人が来ていることはいうまでもない。北九州にも。
それにしても半島からの大量移住がなければ、東日本が古代から列島の中心勢力になっていた。なぜ昔から東北へ向かって(夷・えびす)征伐(こんな言い方でいいのか)を継続して行ったかが理解できる。アイヌの勢力退治だとか言われていたが、縄文時代の血脈を継ぐ力強い人たちが健在で、彼らを討伐しないと自分たちもいずれ脅かされるくらいの力ある集団であった。征夷大将軍の『夷』の意味だけど、さまざまな疫病で人口数が減ったとはいえ、列島の中では野山を駆け回りゲリラ的に生きられた人たちだった。
関西のサントリーの佐治敬三さんが思わず東北のことを『熊襲』発言をして顰蹙をかったことがあるが、いまでもこれは本音のような気がする。京都のホテルのお土産屋で筆者は経営者につかまってしまい延々30分、自分の家系の由緒正しいことを聞かされ辟易したことがある。『私の子孫は卑しい(?)地方の出ではないぞ』と誰彼と話すことにどれだけの意義があるとのかと筆者など思うけど、自慢話ほど不愉快なものはない。京都・関西も含めて、そういう思考回路が部落差別の根源に横たわっているように見える。どこか、近畿圏には弥生のころから『おらが日本の中心だ』を想起する頭脳回路が埋められたとさえ思える。
さらに日本人の祖先はバイカル湖の南側に住む人たちと遺伝子的に共通だという研究者もいるが、それよりこの国がどこへ向かって帆をあげて航海しているのか、どこから来たかも研究テーマでは面白いが『どこへ行く』も考えたい。
異星人。
地球上に理想郷はなくなりつつあるので、早く別の星を見つけなければならないだろう。長距離弾道ミサイルも届かない星へ。しかし瞬間移動でもしない限り年老いて到着するか、もしくは遺体で到着?では笑えない。それより何より、到着先の星に先住民が居たりして?。必ずしも歓迎されるとは限らない。
「回帰説」
太古の昔の事は、誰にもわからない。学者も理論づけはしても、最終的には推測だろうし仮説に過ぎないのだろう。そこで、こんな仮説も面白いのではないだろうか?「人口の急増期」には違う星から大挙やって来て、「人口急減期」には元のふるさとの星に戻ったと。鮭の回帰にも似た「宇宙の神秘説」と言う訳だ。