富山市議会議員12名辞職の報道に接して、国会議員・都道府県議会議員・市町村議会議員も当てはまる話だと思って再々録した次第。とにかく税金という蜂蜜に群がるハチたち。考えてみると近代国家は(EUも官僚が4万人いて加盟国で養っている)ことごとく税金で食べてる利得を得ている集団が圧倒的。北朝鮮も中国もロシアも。東京都庁も都議会もこれからどんどん税金の無駄遣いが、あぶりだされてくる。都議会議員が都庁職員を不振り回しているのか、その逆か、また鶴の一声で進行しているのか。中高年の時間のある方は、『政務活動費の領収書』公開を自分の住む街でやると、後世の人のためになさらに驚くべき実態が蘇るかもしれない。誰が何のために情報公開を求めているかは氏名を含めて秘匿されるから安心だ。

慣用句読み替え(3月21日再録)「瓜田に履を納(い)れず、李下に冠を正さず」

  こういう謙虚な生き方を忘れて久しい。再度、掲載する次第だ。別にこの国に限らない。中国も地方の共産党支部への非難が凄い。私の周りにもこれに類する人たちがたくさんいる。本人は気付いてないのが難点だ。気づきたくないというのが本音かもしれない。官僚化した民間会社にもよく見える光景だ。

「瓜田に履を納(い)れず、李下に冠を正さず」。天子たるものの心得として、瓜(うり)の成る畑で靴を直したり、スモモの実がついた木の下で手を伸ばして頭の冠を直すと、どちらも盗みを働いてるように見えるから、疑われやすいことはするなと答えるのが漢文を習った私たちの答えだ。 しかしここに、この天子は実は当時の公務員(官僚)たちのことを言っているという本をどこかで読んだ。

官僚たちは、税金で食べていて、もともとが農民からみれば泥棒に見える。初めから泥棒と思われてるから、役人はさらに疑われるような行為はしてはいけないという戒めだというのだ。なるほど、こちらのほうが合点がいくし、現代の中国に限らず、この国の不祥事を見ても、2000年以上にわたり世界中で蔓延する事態だ。こう読み替えたほうが慣用句が普遍性を持つと思うのは私だけだろうか。

ただ、ネックは教科書の検定は役所、教える教師も多くが公務員であったとしたら、果たして、教室で子供たちを前にして「この言葉はね、私たち公務員は、民間の人からみたら泥棒と思われていて、その人たちからさらに泥棒と疑われる行いはするなという慣用句だよ」と果たして子供たちに教えられるものかどうか?役所化した民間の企業も稼いできている販売や営業、モノづくりの現場からみて、上司たちがそう見えるときがあるかもしれない。

知人の弁護士が急死して、お別れ会も終わり、近くの居酒屋で大学の同級生6人で入ろうとしたら、公務員ふたりがなかなか店に入ってこない。どうしてだと聞くと、役所と利害関係のある民間会社の人間と飲み食いは禁じられているとのことで躊躇していたのだ。葬儀の後もそうなのか。そのときは電気メーカー、マスコミ、税理士、病院関係者の4人であった。結局、6人でわいわい思い出話にはなったものの、民間は隙あらば、公務員である自分たちを利用して、自分の会社へ利益誘導する危険な存在・・みたいに見下されてる感じであった。そういう民間の人間との付き合いを目撃されて通報されると後でいろいろ面倒なんだと言っていた。
「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」を実感した夜であった。
  1. 同じ穴のムジナ。

    豊洲市場問題にしても、地価の空洞部分の決定事項について、不思議な事に、誰も名乗り出ず、組織ぐるみで隠しあっているようだ。上司にへつらう組織では、上司も部下も保身のためには「ダンマリ」を決め込むし、「嘘をつく事」さえもためらわないのだろう。この場を黙り通せば、定年まで安泰で退職金をもらって、第二の人生への道筋を描いているからに違いない。民間ではそうは行かない。親方日の丸との違いは、内部告発で会社の存続さえ危ぶまれる時代だし、現に何社もが、そんな憂き目に遭っている。そうなれば、保身どころの話では無い。小池氏も切り込んだまではよかったが、ここに来て何故かトーン・ダウンも感じられるのは、結局は、大なり小なり同じ穴のムジナなのだろう。

  2. 大きな栗の木の下で。

    子供のころ、秋になると、隣の栗の大木から落ちてくる大粒の栗の実の入ったイガを拾いに、朝も薄暗い5時過ぎから、誰ともなく集まって、黙々と栗を拾う。申し合わせた様に、子供たちは真竹の先を尖がらせた短い道具を持参していた。「ガサッ!」と言う音がすると一斉にその方向に集まり、落ちて来たイガを我先に足で踏んずけて権利を主張して竹棒の道具でイガを剥き大きな栗の実をせしめて、腰にぶら下げた布袋に入れる。この間30分程で子供たちは三々五々自宅に消える。何故なら隣のおばちゃんが目を覚ましたら「泥棒!」と怒鳴られるからだ。学校に行く前の暗黙の行事だった。また、放課後は、隣の品のいいおじいちゃんが畦を耕す畑の真ん中にある「梨の木」に向かって畦の間に身を潜めて歩腹前進で迫る。手には長い真竹の棒を持って、おじいちゃんの背後の梨の木の大きな梨をつついて落とす。耳の遠いおじいちゃんだから音には気づかない。?ハズだ。こんな「小さな泥棒遊び」はスリルがあって楽しかったし、あの時の栗や、梨は格別「美味しかった」ものだ。あの味を覚えるとやめられない。しかし、今、考えると、あの「おばちゃん」も、「おじいちゃん」も、実は気づいていて気づかない振りをしていてくれたのかも知れないと。イタヅラな子供の頃の僕たちの行為は、どこかの役所の不祥事にも似ている。

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