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自分たちはどこかで、自立とは何でも自分で背負い込んで責任を持ちながら生きれること・・みたいに思ってはいないだろうか?雨宮処凛著『生きづらい世を生き抜く作法』(あけび書房)を前にも紹介したが、わからないことがあれば『教えて』と聞いたり、仕事上でも自分で処理しきれない分量を抱えたら『助けて』と頼めたり、学者の世界でも多いのはわからない単語や用事例、別分野の最先端知識をその道の研究者に『問い合わせて聞いてみる』こともあるが、ことはそういう難しい話ではなくて、日常生活において『あれ、取って』『これして』と頼み合える夫婦や親子も似ている。


雨宮さんは身近な精神的に追い詰められている若い世代が、『助けて』を言えないばかりに、『助けて』と声を出せずに死を選んでいる友人たちを何人か持っていて、そこから出てきた言葉だ。いっとき『自己責任』という言葉が流行った。なんでもかでも『自己責任』なら国も要らないし、自治体も、福祉も教育も要らなくなる。そんなスーパーマンは世の中には誰もいない。


イラクでゲリラに捕まった日本人4名の若者に対してのバッシングもひどかった。そのときも『自己責任』が連呼されて、外務省が危険区域で渡航禁止を破ってイラクに入ったのだから、彼ら自身に責任があると。イラクの部族長が彼らのイラクでのボランティア活動を評価して解放されたが、さらに帰国後、東京の北海道事務所に宿泊できるよう高橋はるみ知事が善処したが、『宿泊費を払わせろ、航空運賃は自腹にしろ』との要求がネットに溢れた。


困ってる人を、貧しい人をさらに困らせる、困ってる人を絶望の淵へ押しやる、そういう世間風土にいつのまにかなってしまった。他人を罰したり、おちょくることで、自分の存在の有意味を味わう人間が、幾何級数的に増えてきた。いまの自分の置かれた状況にたくさんの不平や不満を持ってる大量の国民層が私たちの人相を悪くしている。


自分の置かれているところを離れて想像力を羽ばたかせる習慣は、難しいが、せめて『助けて!』と言われたら、自分の能力の範囲で『助ける』ことは、人の生きる道として彼(彼女)に寄り添って耳を傾ける習慣を持ちたいし、それくらいの気持ちの余裕は持っていたい。そうでなければ、なんのための世間なのかわからなくなる。


落語の世界に、腕のいい職人が博打で大損し、夫婦ケンカ絶えず、愛想つかした娘が女郎屋に逃げるが、博打を止めるならと女郎屋の女将が50両を無利子で1年暮れまでの返済で貸す。帰りの橋の上で集金した50両をスリに取られて身投げをしようとした青年に職人は50両を渡して助ける有名なシーンがある。実際の江戸社会は、そうではなくてもっとひもじい残酷な世間ではあったろうけど、長屋や庶民の願望として『助ける』相互補助のココロが生きていた。私の知らないところで、実は、もう『この助ける』はあちこちで発動されていると思いたい。

 

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