昨日のブログで、日本へ伝えたのが1598年、オランダ人が長崎へ伝えたというのが定説であった。


しかし、日本で最初に来たオランダ人は1600年大分県臼杵に漂流したウィリアム・アダムズ(日本名 三浦按針)で、これでは1598年に長崎に伝えるわけにはいかない。長崎の平戸には、多数のポルトガル船が出入りしていて、パン、カステラ、タバコ、ワインなど日本へ1550年ごろから持ち込んでいた。ジャガイモもそのとき一緒に持ち込まれたのではと推理する人もいる。(下記のブログを参考にしてください)


オランダ船の平戸初入港は1609年だ。ジャガイモの語源が、ジャワ島(ジャカルタ)の地名をなぞって『ジャガタラ芋』と命名されるのも、オランダの東インド会社がジャワ島にあったからという説明もあるが、オランダがジャワ島に上陸したのは1596年、98年に東インド会社の設立とあるから、ポルトガルはそれ以前からジャワと貿易外交をしていて、長崎はじめ日本と行き来をしていたとすれば、伝えたのはポルトガル人ではなかったかと筆者も思う。当時の日本人から見るとポルトガル人とオランダ人は区別できないとも思われる。


しかも最初、ジャガイモは食用ではなくて観葉植物(白い花は実に清楚で美しい)として迎えられた。それが1706年、食用として北海道で栽培されて(ジャガイモ栽培はヨーロッパやアメリカ同様寒冷地に適している)、明治以降、アメリカ・ドイツ・イギリスからいろいろなジャガイモの品種が輸入されて広がった。


蘭学者高野長英(1804年~1850年)も『ソバとジャガイモを考察する本』で凶荒の年に人民を救う食べ物としてジャガイモ栽培の促進を提言している。世界中で2000種あるとも言われるなか、日本では20品種が作られ、食べられている。


ジャガイモは長雨なので疫病も付きやすく、そうなると何百万人もの餓死者をアイルランドはじめヨーロッパは出してしまい、それが後のアメリカ大陸移住へ大量に向かわせた。複数の作物でなく単品だけに依存する食糧事情はいざというときに弱く、凶作になると餓死者を生むのである。


ジャガイモの疫病は黴の1種とされる。ジャガイモの出来不出来で世界の歴史が動いているのである。寒冷地と痩せた土地ということであればアイルランドに北海道も似ている。いまでは土作りから農業であってみれば、より美味しいジャガイモを作る農家が増えているのは言うまでもない。それにしても安くて得がたい作物・数ヶ月保存できるインカからの贈り物である。(筆者の自宅床下に5キロ800円のキタアカリが保存されていて、これで来年までイモは買う必要がない。便利な食べ物で、災害時にも強く、料理の幅も広い。さらに栄養価も高い)。

伝えてきた人、品種改良した人、作る人、選別する人、さまざまな地域と人の交錯で生まれたジャガイモ。ひとつの作物にはまだまだ知られぬ物語が隠れていそうだ。

http://www.in-ava.com/zyagaimo.html

 

  1. 沖縄での大阪府警機動隊員の差別発言やそれを擁護する大阪市長の発言が問題になっているが、芋に関しても様々な差別発言はある。「芋侍」「芋野郎」「芋姉ちゃん」と、大切な食料源の芋が、他の農作物に比べて、これほどランクを見下げられる理由はいったいなぜだろうか。サツマイモをさすのかジャガイモの事かは知らないが、総称して芋と捉えればジャガイモも対象になる。「土人」とか「シナ人」とか現代では死語と思われていた言葉が若い世代の口から飛び出す背景にはゲームソフトの戦闘ものなどで野蛮な言語が刷り込まれたのか?幸いにも「芋野郎」とかの言葉が飛び出さなかったのは幸いとでも言うべきか。

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