『空っぽ』こそ役に立つ(老子の自由訳 加島祥造)
ブログを書くうちに、自分の思考の癖や好きな語彙などが出てくる。違う世界へ行かないといけないと思いながら、またいつもの地平に戻ってくる。
前回は老子の「リーダー論」でしたが(3月24日)、今回も加島祥造さんの自由訳で、表題の「空っぽ」こそ役に立つを紹介します。ちくま文庫「タオ」第11章です。
遊園地の
大きな観覧車を想像してくれたまえ。
たくさんのスポークが
輪の中心の轂(こしき)から出ているが
この中心の轂(こしき)は空っぽだ。だからそれは
数々のスポークを受け止め、
大きな観覧車を動かす軸になっている。
粘土をこねっくって
ひとつの器をつくるんだが、
器は、かならず
中がくりぬかれて空(うつろ)になっている。
この空(うつろ)の部分があってはじめて
器は役に立つ。
中がつまっていたら
何の役にも立ちやしない。
同じように、
どの家にも部屋があって
その部屋は、うつろな空間だ。
もし部屋が空(から)でなくて
ぎっしりつまっていたら
まるっきり使いものにならん。
うつろで空(あ)いていること、
それが家の有用性なのだ。
これで分かるように
私たちは物が役立つと思うけれど
じつは物の内側の、
何もない虚(きょ)のスペースこそ
本当に役に立っているのだ。
空白を嫌う新聞、沈黙の間を嫌うテレビ。疲れないだろうか?ひとりひとりは本当は静けさや平和を求めているのに、あわただしく走りまわっている。サラリーマン時代、内ポケットから手帳を出して、スクジュールを眺めて、「手帳が埋まっていないと落ち着かないんだよ」と言う役員がいた。私は多忙なのだ、この会社で重要人物なのだと自己納得する瞬間である。テレビを見ると、沈黙を嫌う集団の電気紙芝居に思えてくる。空白に暴力を加えているようにみえる。かつての自分もそうだったかもしれない。「暴力的な人は静かな死を迎えられない」。紀元前6世紀ころにいたとされる老子の言葉の加島祥造さんの自由訳でした。
間借り世帯主。
比較的一人が好きな僕の「うつろな空間」はクルマの中ですね。歳をとると、つい歩くのが億劫になって移動にはほとんどクルマを使うからです。クルマの中では大声で歌ったり、音楽を聴いたり、3本ほどダッシュボードに入れてあるブルースハープを吹いたり、時には下手なギターの練習をしたり、仮眠の昼寝をしたり、自由な空間と言う訳です。家庭内では7人家族で、個室は取られ、家にはうつろな空間どころか、リビングの片隅の畳三枚敷いただけのパソコンを打つスペースしか無く、そこさえも長くいれば邪魔者扱いされる始末で、逃げ場はクルマと会社と外にあるわけで、それぞれの短い割り当て時間を有効に使うしか無いのです。でも満足なのは、未だクルマに乗れる事でしょうか。免許を返上なんて事になれば、病院の待合室や大型ショッピングセンターや図書館あたりが僕の「うつろな空間」になるのかも知れませんね。誰のための家なのかわからなくなりますね。
熱中症の妄想族。
何も考えずに単調な空を見て寝転んで「ボォー!」としたいですね。そのうちにうつらうつら眠ったりして。仕事熱中症の僕にはなかなか作れない「うつろな時間」ですけどね。もともとはのんびり屋だったはずですが、いつからか?変わってしまいましたね。これも生活のためだったのでしょうか。でも、まだ遅くはないですね。これから見つければいいわけですから。せめて何も考えられなくなる前に。
何もない重要性。
言われてみれば、クルマだってエンジンなどめったに見ない。居住空間部分が快適なわけで、音の出る楽器だって、ややこしいキーやピストンや鍵盤などは音を出すわけでなく、音は空洞の管だったり、木で囲まれた胴の共鳴で美しくも激しくも音楽になる。パソコンだって基盤などは素人には何の役にも立っていないようで、モニターの中の空間を埋めて初めて仕事ができる。鞄だってそうだ。いくら立派な革製品でも、布でできていても問題は機能で、収納スペースにある。自転車のタイヤも中の空洞部分の空気が支えてくれている。また人間だって芽には見えない空気や重力で支えられている。何もない部分は大切な空間であり、重要な機能でもあり、なくてはならない部分と言うことになる。僕にも、特にこれといって、取り立てて自慢するものも何んにも無いが?果たしてこの世の中で重要なのだろうか?