死者にタッチ・骸骨・ゾンビ映画ほか。
現代は家庭で大家族にに囲まれて死を迎える人が減り、ほとんど病院や特養老人ホームで死を迎える。死んだ後に駆けつけて『間に合った』『間に合わなかった』と嘆息したり悲しむ。
私は幸い、母の手を握って医師の予告どおり、真夜中の0時に脈が停止するまで見守りができて幸せであった。その間、名古屋の兄と越谷在住の妹に携帯で様態を刻々通知して、葬儀の場所を知らせ飛行機の手配を願い、知り合いの葬儀会社の社長へも場所の確保と遺体を運ぶ準備をした。真夜中、遺体搬送車がやってきて、病院の裏口から車に乗せる。
現代は死者を隠す風潮が強く、メディアも死体写真を載せない、テレビでお茶の間に映像を届けない(倫理規定でもあるのか?)(注アメリカのニューズ・ウィークには載せている)昨日、奈良時代から仏僧の欲念を抑える意味で『九相図』の話を書いた。特に男の性欲を抑えるために女性も死して白骨になると思えば性欲減退につながると思ったのであろうか?どんな美人も最後は白骨化するんだよと視覚的に見せて教育をしたのである。
一見、綺麗・清潔好きな今なら『趣味が悪い』とか『夢のない話をしないで』と問われる向きもあるかもしれないが、時間の経過を考慮するとこれほど確かなことはないのに目をそむけて普段、我々は生きているだけ。筆者は死体を4度ほど触ったが、氷のように冷たい。時速約200キロで駆ける血液で体温が保たれていることを実感する瞬間である。
キリスト教圏は、ご存知のように、最後の審判で死者が蘇り、生前の人間の行いが裁かれる信仰(偏見・思い込み・刷り込み)があるから大変だ。ある人が、『認知症の人が復活するときは、病気が治って復活するのか?認知症のままで復活するのか?』と疑問を呈していたが、それを具体化、視覚的に見せる意味で『メメント・モリ(死を思え)』のラテン語を書いて、教会に骸骨をたくさん飾っている。ミイラも残して観光客や参拝者に見せている。ホラー映画にゾンビ物が多いのもこういう背景があるからである。
考えてみると、別にキリスト教世界でなくても『死者がいて、今の自分がある。死んだ先祖たちがいて自分が生まれてきた』。第二次世界大戦で餓死したたくさんの日本兵士やラーゲリで死んだ同胞、また日本軍が殺した朝鮮や中国、フィリピンはじめ東南アジアの人々、アメリカやイギリス、オランダ人、ロシア人、アイヌの人々。数え上げればキリがない。そうしたたくさんの戦争死や自然死の上に今現在の暮らしや自分の生存がある・・・・そう感じるのにミイラや骸骨は教えてくれる。20代前半、折口信夫『死者の書』を読み始めたが、ギブアップしたことを思い出した。いまなら読めるかもしれない。
悲しむなかれ。ヽ(;▽;)ノ
死は誰にでも平等にやって来る。病死、戦死、溺死、変死、事故死。形はどうあれ、必ず来るのが人生最後の死。人間に限らず生物は皆同じように死が待ち受けている。しかしながら、人間ほど残酷な生物はいない。あらゆる種類の生物を食糧にして生きている。人間以外の地球上の生物は生態系の環境変化も含めた、我々人間の手によって死期をコントロールされていることを思えば、懴悔の念に駆られる。人間の死は、他の生物の死から比べれば、食べられて死ぬ訳でもなく、まだ幸せなことかも知れない。