林達夫(1896年~1984年)

 

「それにしても西半球の知性はイエス・キリストのために何と莫大な浪費をしていることだろう。ゲーテはイエス神話をめぐる智能の動員のために人類はまだ1万年は停頓するであろうと嘆じた。全くランボーの言い種ではないが(キリスト!おお、キリスト、ひとの精力の永遠の盗人め。」(林達夫 思想の運命  中公文庫 333p モオリャック・イエス伝について)。


先だっても林達夫さんの本の引用をしたばかりだ。映画にしろミュージカルもそうだし、演劇も小説も、ユダヤ思想も、イスラムとの戦争もイエスの存在抜きには語れなくなってしまう。アメリカもヨーロッパからの清教徒移住だし。この先、ゲーテが言うように1万年はイエスを、キリスト教を話題にすれば大学の先生なら定年まで食べていける主題である。1万年先だとしたら、300年先まで職が保証される(30年の学究生活として)。これを同じく「古事記」研究とすればどうだろうか?か細く学問の隅でひっそり研究かもしれない。


生命の歴史、人類の歴史を考えると、ほこりの粒みたいな年月でしかない。たった2000年前の出来事(神話づくり)でしかないのに人々の日常生活に影響を及ぼしていることを考えると非キリスト教徒からみて不可解でしかない。科学技術にしても、ある現象の背後に法則を見つける営みは「神はランダムに自然界を作らない。ある規則性の中でつくるはず」という予測のもとに探求するから発見される。ニュートンが敬虔なクリスチャンであることと科学者であることはしたがって矛盾しない。


してみると、ゲーテが言う1万年は停頓するというのは科学技術においては併存すると言い換えたほうがいい。「それにしても西半球の知性は・・・」と書いた林達夫さんは、ルネサンス研究家でもあり、ファーブルの昆虫記の翻訳者でもあり、平凡社の百科事典の編集長でもあり、モンテーニュ「随想録」(関根秀雄訳)を誤訳の指摘をしてきた孤高の大知識人である。レオナルド・ダヴィンチのモナリザは「男の顔」だとも指摘している。


その彼が「それにしても西洋の知性は・・」と言うのだから、よほど腹に据えかねた無駄な・呆れる知性の壮大なバベルに見えたのかもしれない。東洋のヴォルテール林達夫が現在、生きていたとしたら、なんと発言をしただろうか?たぶん、沈黙を決め込み、庭のバラの手入れと虫の集合場所を確保して、観察でもしているかもしれない。真実は声低く語れ・・・が彼のモッ国トーだ。戦前・戦中の日本社会の拡声器みたいな軍人行進・旗振り合戦、愛国パレードに辟易していた。知性を捨てたヘイト合戦が世界中を席捲している。もちろん日本の国会も。ひそひそでもいいから真実を語って欲しい、官僚もね。税金で食べているのだから、納税者へせめてそのくらいの責任感はあると思いたい。

  1. 浄土真宗の坊主の孫。

    「神の名において」,と,実在しないが故に神へ責任転化するやりかたは今も健在ですね。責任転化するにはご本人の了承のもとに行わなければならないところを,いないがために省略できる便利な手法です。裁判でも聖書に手を当てて「神に誓って真実を述べます」と言いながら嘘の答弁。国会でも嘘の答弁。神が実在すれば迷惑千万ですね。早稲田の応援団でもないですが,リーダーの神と下級生の雑巾のように実在すればこんな責任転化は起きないでしょうね。「神のお告げ」なども当然「嘘」ですから,人間は罰当たりな動物です。戦士がクルスのネックレスをしてお守りにしていますが,クルスでなくても「ふうてんの寅さん」みたいな帝釈天や成田山のお守りでもいいわけです。ただの気休めですからね。それにしても数知れない宗教が、ますます増えて真実の神は一体どこにいるのでしょうか?

    • 神がたくさんいれば多神教で、昔の時代に戻れますね。現代の神は金で、(紙)ですね。
      印字された。ただ、難点は食べてもインクくさくて栄養にならないところです。

  2. 大凶おみくじ。

    私は北海道神宮には行きますよ。「神頼み」って言うやつです。お金に困ったり,仕事で行き詰まったりした時ですね。何をしてくれる訳でもありませんが,日常の喧噪から離れて瞑想するには格好の場所です。それに神社は子供の頃の遊び場でしたから,今でも親しみを持っています。境内には自由に出入りできて,おみくじなどをひくのが楽しみです。ところが、若い頃に友人と始めた仕事の門出に三吉神社でおみくじを弾いたのですが、なんと「大凶」と出ました。その友人とは仕事でもうまく行きませんでした。その後は「大凶」は出ていませんが,当時は驚きましたね。滅多に出ない札ですから,ラッキーなのかも知れませんね。北海道神宮も今では中国圏の観光客の人々がバスを連ねて毎日のように来ていますから少し騒がしくも成りましたが。

    • 出雲神社系列の神主と知り合いになって、ときどき遊びに行ってますが信心は全くない
      ですね。願いがないのかもしれません。ブログのテーマが思い浮かばないときに「何か
      ないかい?」と自問自答することくらいです。神社や寺には全く縁のない暮らしを40年
      続けていると、私みたいな不信人者になるのですね。次男と次女のアバウト両親から
      生まれた筆者です。

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