アマゾンはヤマト運輸と契約しているから、通販を利用するお客は画面で商品を選び、登録したカードで決済すれば済むと思っている。いまの世の中、何でも通信販売だ。運ぶ人のことを考えて、自分の足で買えるものは買うような習慣を根付かせる教育やしつけが必要ではないかと思うこのごろだ。


トラック運転手が足りなくて疲れていることを、通販を利用する前に一呼吸置いて「自分の足で買いに行けないか」考えることが必要な時期に来ていると思う筆者である。アマゾンの大きな箱で大分県から帰宅する娘が水を頼んだことがある。2箱である。日田市で沸く水である。重くて重くて、こちらが申し訳なくて運転手に謝ったものである。また大きな箱に子供の衣料品が1点とか、「アマゾンは癖になる」。


消費者は「金さえ払えば、持ってきて当然」と思うだろうが、そうだろうか?運ぶ人への苦労や感謝が第一ではないだろうか?顔と顔を合わせなくなって、物とお金の交換、言葉の交換の抽象性が高まって、ブレーキが利かなくなってきたように思うのは私だけだろうか?ネコも杓子も通販・通販。地場の商店街のシャッター化現象に、地元に落ちてもいいお金が通販企業に支払われる。「依存症」で一番深いのは「通販依存症」かもしれない。「通販は安い」と言う。


しかし、その安さの背景に多大な誰かの犠牲があるとしたらどうだろうか?バングラディシュで縫製工場が倒れて少女たちがたくさん亡くなった事件を覚えているだろうか?ヨーロッパのブランド物もたくさんここで作られていた。中国のアップル製品を作る工場労働者が過労により自殺者が続出して、労働改善を求める訴訟を起こしている。21世紀になっても、アフリカでダイヤモンド・金や銀、プラチナを掘るために黒人労働者を酷使していたヨーロッパ植民地時代となんら変わらない。


中東の建設現場でもたくさんのネパール人が死んでいる。カトマンズに手配師がいて中東に送り込むのである。慣れない猛暑と劣悪な労働環境で棺桶に入って帰国する夫を見て泣きじゃくる奥さんと子供。金持ちのアラブ人は肉体労働をしない。何でも貧しい人々へ丸投げの仕事をする。筆者は、現代の通販業務は、これにどこか似ていて「パソコンやスマホで商品を選び、あとは丸投げして到着(建築でいえば完成)を待つ」王侯の気分にしているのではないだろうかと危惧するのである。


長い間、通販の依存をしていると、どこか生意気な人間に、偉ぶった人間に徐々に変化しないかとも思う。杞憂であればいいけれど。買える物なら、自分の足で買う習慣に少しずつ戻して、トラック運転手超不足の時代、考えた消費行動をしてはどうだろうか?道の駅や公園の駐車場でぐったり疲れた運転手を見ていて、特に雪国の運転は命取りにもなるのだ。時代の流れに逆行するブログでした。しかし、小さな安いものを運転手さんが運んできて受け取るときに「申し訳ない、こんなものを」と思うときがあれば、何でも通販で買う行為から脱却できると思うのだが。

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