電車の中心で「金儲けは悪だ」と叫ぶ
会う人の個性によるけれど、言葉の端端に「これは絶対〇〇だよね」とか「絶対〇〇が悪いよね」とか「あそこの〇〇は絶対いいぞ」とか、筆者は「絶対」発言されるのが苦手だ。なぜだろうかと考えると、この絶対には、時間の経過への信頼がない。時間がたてば、状況が変われば、「絶対」は「マシな方」ぐらいに変わる。
生命絶対主義もあった。時間が経てば、いずれ棺に入るわけだしね。個人の偶像崇拝も似ていて、いずれその個人もいなくなる。「絶対善」と思い込んだ信念がどれだけの他人を殺生したかを考えれば、穴だらけの人間のカラダに鋼鉄の甲冑を着せて、生きてるロボットを思い出す。
信念を持たれた人へ説得するほど虚しい営みはない。朝の通勤電車で知り合いの道庁職員に遭遇、四方山話をしていたとき、営業で自分の給与のほぼ3倍のお金を毎月稼ぐのが中小企業の営業マンの常識みたいな話を私がしたら、突然、金儲けは悪であると叫びだした。道庁内での自分の処遇への不満があったのか、車内のお客もびっくり、全員こちらを向く。毎日の暮らしのために稼いでいる民間の人がたくさん乗車しているのに筆者はこんな人と知り合いの自分が恥ずかしくなった。
「金儲けは悪だ、だから自分は公務員になったのだ」と。「公務員の給与はどこから出るの?」と筆者。大学の法科を出て、何を学んできたのだろうかと思った瞬間だった。恥ずかしげに生きてるのなら可愛いけれど、民間企業をこうまでコケにして生きてる公務員ってなんだろうと思った。何かの思い込みに洗脳されているのだろか。
彼らにしてみれば「黙ったいたら、民間は儲けるために何をしでかすかわからない連中。だから監督・監査する必要がある」とでもいわんばかりだ。学生時代、家庭教師をしていた子供が大きくなって、車のディーラーに勤務した。毎月毎月の新車を売るノルマに朝礼にも疲れて、心機一転、公務員試験を受けて合格。道庁に入った。
数年後、近況を聞くためにお喋りをした。「入ったときは、毎日、何をのんびりやってるのかと民間とのギャップを強く感じて、数字に追われない初めての空間に戸惑いがあったが、不思議とだんだん居心地がよくなり、慣れてくると、これが普通になって、厳しかったディーラー時代のことを忘れていく」と。「民間から見たら楽ですよ。人間関係はどこの世界も同じ悩みだし」。「全道の転勤はあるけど、安い住宅に住めるし」。電車の中心で、金儲けは悪だと叫んだ人から見るとまだバランスが取れている教え子だ。
昔の少年
若いときにデザイン修行のためにある大先生に弟子入りした。この頃はデザイナーは画家や芸大出のほんの少数の人でしか居なかった。デザインの専門学校など無く、大阪では、なにわ短大のデザイン科とか東京では大塚学園のテキスタイル・デザイン科などしか無かった。永井一正や田中一光あたりが幾何学的なパターンをグラデーションで描いたり、横尾忠則がマッチのデザインをもじったり、和田誠が下手ウマイラストを描いたり、ようやくデザインの芽が生えてきた時代だった。カネボウのヘッド・オフィスの意匠課のテキスタイル部門の海外向けデザインを受けていた僕の大先生はパイプタバコにハンチング姿で、横浜の画商の息子だった。僕のデスクの前には著名すぎる画家の大キャンバスに描かれた油彩の裸婦が架けられていた。志願した弟子は僕一人。当然、大先生の身の周りの世話もしなければならず、或る日大先生のデスクを掃除してい売り上げ請求伝票を見てしまった。その時の僕は愕然としたのを覚えている。とにかく凄い金額を毎週請求して、毎週入金があったからだ。その時、デザイン志望の僕は「デザインって、とんでもない邪道だ」と思った。デザインはアート(芸術)と思い込んでいたからだ。デザインは商業デザインでビジネスなんだと自分に言い聞かせるのに相当の時間が必要だった。最初は足手まといで使いっ走りしかできなかったが、お小遣い程度の給金で実際のデザインの仕事をしていた時だけに金額のギャップに驚き、芸術家出の大先生がビジネスに走っていた事が許せないと思ったものだ。その後は写真もコマーシャル・フォトであり、デザインも商業デザインなんだと自分に言い聞かせながら理解させながら今日までたどり着いた。今考えれば芸術も或る意味ビジネスなんだとさえ思えるようになった今日の自分が居る事に気づいたブログでした。純粋すぎるのも怖い。しかし定年間近でもそんな人が居たんだと若き日を思い出し笑ってしまった。