筆者も若いときに大学の教養学部に在籍して、それから学部へ移行した世代なので『教養』という言葉に親しみを覚える。文系志望であったから入試は数学ⅡB。理系から生物・地学・物理・化学から2科目選択、理系の人間も社会から2科目選択する義務が課されていた。教養時代も大講堂でのマンモス教育ながら生物や地学を学んだ。まあ詰める知識は、どんなものでも覚えておいて損はないよという方針であった。

教養とか品って何? (2015年9月10日)

石川淳

石川淳(作家)

あるテレビ局のシナリオライターWさん(彼は毎日新聞主催のドキュメンタリー大賞を取った人だ)と、時間があればコーヒーをすすりながら「教養っていったいなんだろうね」と議論をしていた。


大正教養主義、三木清みたいな自分の人格陶冶の話ではなくて、最近はほんとうに少なくなったけど、営業先にも品を感じる人が窓口にいたものだ。全道のNHK支局にイベントの後援をもらうために広報担当者と会って話をすると、NHKの職員には、半分公務員ではあるが、興味ある題材の勉強や研究をしている人が多かった。いずれ、関心の深い分野の番組を作る準備をしているのだ。夢を生き生きと語り出す人もいて好感を持てた。


しかしそれ以外のテレビ・新聞関係者・広告代理店には意外や少なかった。知識や金はあるけど教養や品がないのだ。強いてあげれば、朝日新聞の天声人語を一人で書き続けた深代淳郎さんタイプが私の教養人のモデルになっている。46歳で急性骨髄性白血病で亡くなったけど。知識や本が胃腸で消化されていた人だ。血肉になっている、それだから、振る舞いが自然だとかいろいろ指標はあるけどね。なぜ筆者が教養の大事さを言うのか。私の狭い経験では、そういう人には戦争や戦いで他人を平気で犠牲にさせる人が少ないと思うからだ。そもそもそれを避けるよう全力を尽くすだろうと思うのだ。


絵描きとか書道家にも多い。手や指をたくさん使うと、大脳が細分化されて、細かな差異やニュアンスがわかる人間になるのかもしれないが、W氏さんとの教養論議は終わりそうもない。お互い、退職してからも「教養や品」について語り合える貴重な知人だ。オーディオクラシックマニアでもあるのだが、ニュアンスが細かいデリカシーのある人だ。ドキュメンタリーのシナリオを書いた手を持っている。


ふたりで合点がいったことが一つだけあって「教養人はひとりのときに、その時間を何に使っているか、習慣として継続性のあることをしているかで形成されると。それが作家の長編を読むことだったり、音楽を聞いていたり、落語をかけていたり、落ち着く時間を・研究する時間をたくさん持っている人かもしれない。後は考え事をしているかである」。それが結果としていい顔を作る。いい顔をつくるためには充実したひとりの時間をたくさん持たなければダメかもしれない。


いい顔の人にはまた品のあるいい顔の友人ができる。似たもの同士の輪ができる。なんだか抽象的な表現になったけど、わかる人にはわかるはず。それが見えにくい時代になってしまった。ひとりの時間には他人へつながろうとスマホいじりが多いから、なかなか孤独にさせてくれない世の中だ。居酒屋からの帰りに交番の前を通ると、凶悪犯の人相書きと犯した犯罪が書かれ、写真も貼られていたが、なかなかハンサムな顔もあり、昔はいかにも凶悪犯という顔が今では「普通の顔」になってる。凶悪犯は凶悪犯の顔をして欲しいな・・・と強く思った。ならば、市民は魔手から逃れられる。『心の中は読めないし』。

  1. TVでは,教養より栄養とばかりに食べ物ばかり紹介して居る。また一方では,東大生だ京大生だとかOBだとかがタレント化して大した知識では無いが簡単なクイズ番組に出ている。無駄な贅沢と,無駄な教養の見世物娯楽番組だ。それほど教養をタレントの武器にするなら,もっと,まっとうな職業は無いのだろうか?そこまで努力と元手をかけたのなら,立派な事の一つや二つくらい出来そうにも思うが・・・。結局,教養も栄養のためにあるのかも知れない。食べていくためには。?。

  2. 多くの事に関わってもいいのですが,わかりやすく言えば,一つの事に夢中になればその人の顔はそれなりの表情に形成されるでしょうね。年齢は外見からは判断できませんが,言葉使いや,立ち振る舞いにも表れるでしょう。逆もあるわけで,形相の悪い人で一般的に考えれば性格のいい人は少ないでしょうね。職業が作る顔もありますね。例えば警官や自衛隊などでは言葉遣いや人との付き合い方も教育されますから自然に一般の方たちとは異なりますよね。かといって,それぞれの職業は必要なわけで,みんなが小説家や芸術家ばかりでは世の中は成り立ちませんね。それぞれの顔を毎日観察しながら想像するのも楽しいですよね。自分の顔も見られているわけですが・・・。

  3. きれいな年寄りになりたいと思っていましたが,なかなか思うように行きませんね。幼少期にお隣に居たおじいちゃんは小奇麗で品のいい人でした。池には錦鯉が飼われていて,池が見える渡り廊下伝いに離れの書斎に居ましたが,時折茶の間の大きな箱火鉢の前に座ると南部鉄瓶のお湯から朱泥の急須でお茶を入れてくれました。言葉はありません。子供の僕に,ただ黙々とお茶を振る舞ってくれるのです。品のいいお爺ちゃんですが,時々裏の畑に鍬を持って耕しにも行きます。その時はお百姓さんの姿です。外でも殆ど喋りません。ただ微笑むだけです。そんなおじいちゃんに成りたいなと思っていましたが,なかなか成れませんね。

  4. 考えてみれば,自分はある部分では父親のコピーですね。額も広くなって顔もだんだん似てきました。親の顔を見ればその人の将来像が見えると言われて,女房の母を見れば太っていました。案の定,今では母親のコピーですね。生まれて一生変えられないのは親から貰った血ですから,どうもがいてもコピーです。教わった覚えは全くありませんが,生き方さえも似ていることに気づきますから怖くらいですね。しいて言えば,芸術肌の父親の方が品は良かったですけどね。

  5. 脳ある鷹はお洒落せず。

    「脳ある鷹は爪隠す」のたとえの通り,本当の博学な人は知識をひけらかさないものですね。口数も少ないですから,見かけだけではわかりませんね。お洒落で小綺麗にしているかと思えば,そうではなくて,こちらが気をつかいたくなる位に何時も同じ服装をしていたりします。合理主義なんでしょうね。ご自分の中では,お洒落は無駄なのでしょう。他から見ればもっと無駄なことをしているようにも見えますが,必ずしもそうでは無いようです。そんな人が居ますね。身近にも・・・。

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