ジャガイモと北海道について(770本目ブログ)
これまで、3回にわたって『ジャガイモの歴史』を書いてきたが、前回は日本への伝播について。今回は全国のジャガイモ生産の75%を占める北海道の話。明治以降、稲作は寒冷地での品種改良も遅れて進まなかった。できても硬いお米であった。北海道米は水分が少なくチャーハンには適してはいただろうが、やわらかさや甘みについて劣り、美味しい米なら本州米が相場であった。ササニシキや秋田小町は憧れの米であった。私が山形に行ったとき食べた夕食のご飯が『なんだこりゃ、もち米ではないか!』と仰天するくらい美味しかった。
それほど本州で食べられていた美味しい米は長い間、北海道では作れずにきたのである。そのかわり、北海道ではジャガイモが盛んに栽培されてきた。寛政年間(1789年~1801年)にロシア人が北海道や東北に伝え、エゾイモと呼ばれていた。しかし、それは観賞用の植物としてで(白い花や紫の花が咲く)食用ではない。ロシアが北からジャガイモを最初に持ってきたとは驚きである。
1871年(明治4年)にアメリカの農務長官ホーレスケプロンが来道、北海道の寒冷地でどんな作物を作ったらいいのか、開拓史の農園を作った。goverment farmといわれ、外国の農業技術を導入し、作物の開発・指導をするである。小麦やトウモロコシの種をアメリカから仕入れた。同時に牛や豚や羊の飼育も始めている。
明治6年には牧畜の父といわれるエドウインン・ダンもお雇い外国人として赴任。馬を中心に耕作用として牧場を作った。さらに、明治9年札幌に赴任した農業家ルイス・ボーマーが様々な作物の試験について開拓史へ報告。馬鈴薯(バレイショ)についてボーマーは『愛蘭(アイルランド)種馬鈴薯はことのほか好成績を収めました。北海道でのこの上々の成功は、私が初めて経験するところのものです』しかし、バレイショは病害に弱くて外国では飢饉が頻発する地域もあったが、ボーマーは『北海道のバレイショは強健で粉状を呈し病害を蒙ることなし』と報告、この作物が北海道の気候に適していることにいち早く着目していた。(『ケプロンの教えと現術生徒』冨士田金輔)(*現術という言葉は初めてみた言葉である)
冷害に強いバレイショは開拓民の食糧として作られた。明治30年以降、でん粉製造技術の発展していき、第一次世界大戦では英国への輸出品目にもなっている。(『北海道の歴史と風土』創土社)。これが広い十勝、最強の士幌農協に現在では、東洋一の澱粉工場、ポテトチップ工場、発芽抑制のためのコバルト照射センターその他流通倉庫を所有している。士幌の農民所得は大企業で働く高給取りの実態に近いくらいだ。
カルビーのポテトチップスの原料は『トヨシロ』という種類のジャガイモなので、千歳のカルビー工場見学(現在改修中で工場見学できない)の際、係員も教えてくれる。余談ながら『ジャガポックル』は千歳ですべて作られている。北海道の開拓といえば、クラーク博士の『少年よ野心(ambisus)を抱け』で有名だが、思想的にはそうかもしれないが、開拓民は農学校とは関係ないところで生きていたので、鉄の耕作機械のフラウの使用や馬や牛、羊を連れてきたり、ジャガイモの種を持ってきて植えて、命をつなげてくれたお雇い外国人の役割がケプロンやエドウィンダンの役割がとんでもなく大きいのであることを再確認したい。
ホーレスケプロンの銅像は黒田清隆の像と並んで大通り10丁目にあるから見学して欲しい。ケプロンが麦やホップも植えることを提唱、これがなければ大日本麦酒(サッポロビールの前身)への払い下げの殖産興業もなかったかもしれない。エドウインンダンの記念館は北大の中にあるし、第二農場として残っている。ここに農作業をする馬がたくさん飼われていた。
北海道の色彩。
外国人の協力は北海道にとって大きかったようですね。少し前までは,本州と違い,ドイツ張りの板壁といい,スライド式の窓と白い洋風建築も多かったですね。最初に北海道に来た頃は,一瞬!外国か?とさえ思いました。本州からも外国からも多くの人が訪れ,新天地をここまでに発展させてくれたことにに感謝ですね。北海道独特の風景や色彩は大切にしたいですね。
seto
私も瓦の屋根を見たとき、これが日本か?と思ったのと同じですね。
北海道の農業。
収穫量日本一のジャガイモをはじめとする農作物も開拓時代には未だ経験したことの無い寒冷地での実験段階だったのでしょうね。種芋を持ち込んだのは開拓民たちだったのか?それとも政府の関係者なのか,外国から派遣された指導者なのかはさて置き,栽培したのは本州からやって来た開拓民たちで普通の人たちだったのでしょう。食料を確保しなければ家族は生きていけませんから農業への取り組みは真剣だったと思います。そんなフロンティア精神が今の北海道の農業を育て上げたのでしょうね。
seto
種芋はアメリカ人(農業担当者)のアドバイスでしょう。アイルランドの飢えから大量のアメリカ移民
も始まってますから。ひどいときは種芋自体をそのときだけでも生きるために食べていましたよ。
北海道へ渡ってきた来た人も,飢饉から逃れて、より広い土地をくれるということで各地で説明会
が開かれて藩主が住民をまとめて連れてきたので、アメリカ移住に似てます。そのときの説明会の
模様の写真やポスターも残ってます。
北海道の食べ方。
昔,本州では「じゃがバター」など食べた事はありませんでした。バターそのものは余り馴染みがなかったのです。小学校の給食には脱脂粉乳とパンとマーガリンでした。牛乳もバターも貴重品でした。しかし北海道では牛乳も豊富でバターもふんだんに使う料理が多いのに驚きました。最初に驚いたのは「じゃがバター」です。次に驚いたのは「ご飯に牛乳をかける」と言う話でした。これだけは冒険過ぎて,未だに実験できない事の一つです。アスパラガスも札幌で初めて食べた食材でした。先ず驚いたのは炒めたアスパラガスをマヨネーズと混ぜた醤油で食べる方法でした。今では北海道流のこの食べ方がすっかり気に入ってしまいました。