普通の人になるには自分の頭で考えること(2)
6月17日は「自分の、頭で考えることで普通の人になる」であった。普通・普通と私たちはよく使う。「普通でいいよね、普通が一番さ」とか。普通ってわかるようでわからない。
暮らしぶりも全戸違うし、家族構成も違う、病気の有無や、いまは所得の差、個人のプライドの差も大きい。さらに私の年齢では親の介護があるかどうか?子供が引きこもって、死ぬまで(死んだ後も)彼らの経済生活の面倒を見れるかどうかの不安、子供は結婚していまはなんとか自立して暮らしているが「いつなんどき子連れで帰宅するかもしれない」。
そういった、具体的な暮らしの中身を精査すると、「普通」という言葉で指される内容は実は表現できないかもしれない。お金持ちであるがゆえに、働く必要がない分、他人との交渉ができず「対人恐怖症」になってしまった人もいる。親が全部、交渉ごとをこなしているからである。
ブログのテーマは「普通の人になるには自分の頭で考えること」だ。他人との交渉ごとも、相手はその都度、考え方が違う人だから、Aさんに通じたことがBさんにも通じるとは限らない。自分の頭で考えてその場を乗り切らないといけない、誰かに丸投げすると、次回から相手はあなたを交渉相手にしなくなるかもしれない。「なるほど、あなたはそういうことを考えているのか」と思われたほうが、結果的に間違った結論であっても相手から尊敬されるだろう。
なぜなら、自分の頭で考え誰にも丸投げしないで真剣に自分に向き合ってくれたからである。生徒と教師の関係にも言えるし、大きく言うと戦後の日本の外交についても言える。田中角栄が中国で今でも尊敬されているのは、アメリカに相談せずに外交をしたからであるという単純な事実を思い起こすといい。アメリカに忖度せず外交をする大事さがこれからの日本を普通の国にする近道である。「普通の人」を「普通の国」に読み替えてのブログになってしまった。(このテーマ続く)
普通か?特別か?
私たちは「特別」と言う言葉を好んで使っていたり,選んでいるような気がしますね。と言う事は,実は普段は「普通」だからなんでしょうね。「特別な物」,「特別な人」にあこがれてはいるものの,手が届かず,到達出来ずにごく普通に暮らしているのでしょう。しかし,一昔から比べれば「現在の普通」は「昔の特別」だったのかも知れませんね。「特別」も「普通」も受け取る側の考えや心の問題かも知れません。自分が感じている「普通」は,ほかの誰かの「特別」なのかも知れないですからね。