トラ2頭

札幌円山動物園

私の住む街の広報に、臨時職員募集が出ていた。65歳未満なら応募できるということで履歴書を先週のうちに出してみたら、職員課から受理しましたので、月曜日、面接にきてくださいということだった。期間は6月1日から11月末日まで。仕事内容は、無断で捨てられている廃棄物のパトロールだ。月に38時間なら、せいぜい週に2~3回の勤務で、7月・8月と大分から来る孫と娘との遊び金になると勝手に考え、面接に臨んだ。

交通費を入れると日給7000円くらいになる。きっと、カメラを持って廃棄物を撮影して、そして資料を作り報告書も作り、なかなか面白そうな仕事ではないかと妄想していた。私を入れて7人が応募。30代がいて、貧乏ゆすりをしていた。見たところ私が最年長だ。

二つのグループに分けての集団面接だ。氏名・住所・電話番号・応募動機を口頭で話す。ところが、仕事の内容はいいとして、38時間というのは毎週働く時間であった。フルタイム採用だ!!朝の8時45分から午後5時15分だ。これでは孫とは遊べない。「すいません、私の勘違いで、1カ月で38時間と勘違いしてました。帰ります。今回の応募はなかったことにしてください」と言い、席を立って帰ってきた。

よくよく読むと「週」になっていた。週と月を間違えるようでは、働く資格はありませんねと娘から冷やかされたが、年齢的には落ちただろうけど、なんか良いことをしたような気分になった。採用倍率を下げたからね。札幌への飲み代稼ぎなら探せばありはずと自分を慰めている。定年後、一番の戦いは退屈(アンニュイ)だ。

ライオンはお腹いっぱいになったら、じっと座って動かないことが多い。無駄なことはしない。獲物狩りと生殖のときだけ激しく動くけど、ホモサピエンスは「暇」や「退屈」を味わっている。20代後半で、早くも私に定年になって年金生活への憧れを語る人がいたことを思い出した。私は「まだ結婚せず、家庭もないのに」と彼に言ったが、驚くべき発言。彼曰く「だって、数字の世界はもう飽きた」。退屈から見れば、その世界もいいものだよと言ってあげたい。数字の世界で遊べばいいのでは?

「ホモサピエンスは、そこに居続けても生活はできるのに、あえて新しい土地を求めて移動を続けたのはなぜか?それは旅心==すなわち好奇心や探究心のなせる業ではないでしょうか。だとすると、これは生物史の中でも画期なことといえます。それまでの地球上の生命体は、生きるのに必要なことしかしてきませんでした。ところが私たちの祖先は、生きる上では無駄とも思えるようなこと、いわゆる(遊び)に労力を費やしたのです」(生命とは何だろう・・長沼毅・集英社インターナショナル 151p)

一眼レフに凝ったり、道の駅のスタンプラリーをしていたり、温泉周りをしていたり、孫だけに生きがいを持っていたり、山菜取り、そば打ち、カラオケ、野菜作り、海外旅行、ガーデニング、町内会活動、OBたちと飲み会、ウォ-キングやアスレチックへ。北海道ではこれにパークゴルフが加わる。預金通帳でトランプしてニヤニヤする趣味もある。私はどれにも深く入らず(入れず)、ぼんやりしている。そのぼんやりが、週と月を間違えたのかもしれず、不真面目な定年生活でブログで遊んでいる。しかし、どうしてこうもやることが(行くところ)同じなのか。同世代ながら横から見ていて嫌になる。幼少の頃からのへそ曲がりはいつになっても治らない。

  1. 他とは違う、他人とは違う、他社との差異化、なんて企画書には必ずと言っていいほど僕達は日常のコメントに使っている。同じ考え、同じ行動が安心感を得られ、そのグループに属していたほうが間違いないのかも知れない。しかし人間の生き方も千差万別。どれが良くて、どれが悪いなんて二極分化はできないのではないかと思う。言い換えれば幸せか不幸せかも、退屈か充実かも感じるのは本人次第。他人から見れば忙しそうに見える人も意外に余暇を楽しんでいたりする。例えば僕は仕事半分遊び半分主義。ただ遊び半分は自分と遊び友達しか知らないし、仕事半分も遊び友達には全く理解されないだろう。残念ながら家ではどちらも理解されていない。つまり遅くなれば遊んでいるのでは?早く帰れば仕事が暇なのでは?となる。実は仕事が有っても無くてもコンスタントに家には遅く帰る事にしている。やる事はいくらでも見つけられるのが半分主義で、仕事もあれば無駄な事も探せばある。最近では夜9時になると孫の末っ子から帰宅催促の電話が入ったりする始末。こんな僕は、これまでまじめな会社員であった事がないが自分では居心地がよく快い。いつまで続かる事が出来るのかこの不真面目人間生活を。他人とは違うと自問自答していた筈も、知らず知らず、いつの間にか他人と同じ事をしている自分にも気づくこの頃だ。

    • 人間も社会化する生き物だから、集団にいて安心を得られるのだろうけどね。私も街中を歩いているだけでほっとしますから。
      一番好きなのは、帰宅の電車の中と友人とのお喋り時間。これが至宝です。今も。いい仕事ができて、会話も楽しくて静かな
      帰りの電車に乗り、雑誌でも読んでる時間(家にはまだ着かない)を再現したいものです。
      しかし、この静けさを破るのが、自分の中に住んでいるたくさんの他人で、その存在であったり、残した言葉だったりでね。
      自分が書いてる言葉も喋ってる言葉もどこかで誰かの真似をしたり、ぬすんで書いてる可能性もありますから。まったくの
      個人ってあり得ない存在ですね。インドでオオカミに育てられた子供がいましたが、少し言葉を覚えて短命に終わりました。
      言葉も社会の財産です。お金も実は他人の認証(それはこれを幾らで交換するという同意)がないとただの紙切れですから。
      農業の偉大さは、飢えを防ぎながら生かしてくれることですね。天変地異も大昔から、人間の希望とか意思とか全く忖度しない
      という性質なので、地球の歴史って凄いと思います。その表面に少しスペースをもらって生きてるのが我々ですね。

  2. 週と月の勘違い?!
    あり得そうで可笑しくていいな。いっそのこと1ヶ月働いてブログで報告したら、楽しい話しを聞けたかも。
    ところで、「カメラでも、温泉でも、そば打ちでも」集まって楽しんでもいいと思うのだけれど、駄目かな。「横から見ていて嫌になる」ほどのことではないでしょう。このブログの主宰は多様なものを認める人なはずだけど不思議。主宰のようにカメラ持って街に出掛けてブログ書く人も多いと思うけど、不思議。

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