非日常空間としての空港

 

きょう(9月9日)は新千歳空港内の映画館に行った。土曜日で駐車場は大混雑。上映時間にぎりぎり間に合う。いつ来ても、空港の中は多国籍。人また人。外の世界が不景気だろうと、それを忘れさせるフェスティバル空間。お土産も奮発して買ってしまう雰囲気だ。

私のパニック障害も直りつつあるから、生きているうちに全国の博物館巡りをしないとは思うが・・・。政府専用機も2機とも外に出ている。羽田へ行くのか、帰ってきたのか。レストラン街は『一幻のえびラーメン』に長蛇の列。一度食べたが、私は臭みが苦手で残した。貪欲な胃袋がうごめく空間だ。居酒屋風の『きくや食堂』で食べた『かに丼』は美味しい。札幌に仕事で来た友人と食べた空港内のこの味は筆者も久々の美味に出会い、彼の注文した定番の『海鮮丼』に筆者はカニをどんと載せてあげたら『美味い!』の歓喜。食べて良かったね。カニなどは道産子でも1年に何度も食べない、値段が高くて買えない。それこそ非日常の食品。

カニは果たしておかずなのか。カニ通に言わせるとズワイガニが一番おいしいカニらしい。そういえば、医者たちとオホーツク海の紋別市に講演の手伝いに行ったとき、帰り際、『そうだ、ズワイだ、買わなくちゃ』と言って、海沿いのカニ問屋に走っていった。筆者は細い、体が小さなカニは肉の量が少ないから買わない。味噌も食べない。時々、食べ物通で語り出す人が、みんな変態に見えてくるときがある。どうしてそんなにこだわるの?自分の舌を信じて食べましょう。おなかが空いているときは何を食べても美味しい。おかずがなくても御飯だけでも食べる筆者だ。味噌汁は2週間に1回くらいで十分。シャケの切り身一つでもあれば幸福感漂う。酒も飲まないし、タバコも吸わない安上がりの男である。

書いてきて、わかったのは、私自身、安上がりな人生なので日常生活から非日常へ移行することが困難な性格なのかもしれない。疲れるのだ。無理をしたくないのである。飽きっぽいのも、非日常な趣味や人間にも疲れてしまうからだと思う。そもそも本来、ナマケモノで何もしたくないのかもしれない。できれば、農耕民でなくて(農耕は仕事が多過ぎる)狩猟採集をして生きる人種かもしれない。

それなら、どうして2015年3月18日から今日まで一度も休むことなく900回以上、書き続けているのか。ブログを書いていること自体、非日常性そのものかもしれないが、実は私の頭自身が空港に変化しているかもしれない。多国籍で、外の世界が不景気だろうと私の想像力の羽根は軽々と時空を超えていくらしい。渡り鳥のシーズンが近づいてきた。海の魚にも渡り鳥にも国境はない。地面の中のミミズも隣の土地を浸食しても違法ではない。生き物から見たら、人間世界の決めごとはすべてフィクション。しかし、それで人が死ぬ。

飛行場の話から話題は飛んでいって申し訳ない。

 

  1. 空港に子供を連れて行くと、何時間でも方々館内を駆け巡り,附いていけないいけない位に疲れますね。家庭や学校や近所のショッピングセンターとは何処か違うのでしょうね。我々と肌の色の違う人や,言葉の違う外国人も沢山いて面白いのでしょうね。ここだけは国境を感じさせない空間ですね。賑わいに疲れたら,静かなレストランなどで一休みして,名物のお菓子など買って帰りますね。前々職では役員が来るたびに空港まで出迎えに言ったり,大得意先のマーケティング担当役員が来れば車で迎えに行って催事会場まで案内したり,出張などで空港を頻繁に利用していました。最近は出張も殆ど無く,両親も他界して実家も壊していますから帰省も無くなり,むしろ家内や娘の方がコンサートだ何だと利用するようになりましたね航空運賃も安くなった訳で,何か用事を作って出かけなければと思うこの頃ですね。

  2. 蟹よりジャガイモ。

    若狭湾の半島の突端で旅館を営む元漁師の義父が健在な時に来道した際に,ご馳走をしようと,仕事先でもあった高級蟹料理専門店の氷雪の門でタラバの姿焼きなどを振る舞った事があった。当時サラリーマンの僕には大奮発したつもりで,きっと大喜びしてくれるものと高を括っていると,意外にも義父の口からはこんな辛口なコメントが飛び出しました。「北海道の蟹は大味やなぁ。蟹はやっぱり越前蟹やなぁ」と。つまり旅館業で絶えず越前ガニ(ズアイガニ)を取り扱っていたのです。それなら,安いジャガイモでも食べさせた方が喜んでもらえたのでしょうね。

  3. 兄弟は他人の始まり。

    かなり以前の話ですが,或る同業他社の,弟のように付き合っていた(自宅にも夫婦で遊びに来ていた)若い営業マンが仙台転勤を命じられたのです。本人は実家は恵庭で,本州には身寄りもなくためらって相談に来ました。喫茶店で僕は彼に「新しい土地で心機一転したほうがいいのでは?」と,僕の経験から話しました。実は就職時にも、その会社の内情を良く知っている僕が後押したのですが,札幌営業所では上司との折り合いも悪く,居心地は良くなかったようです。しかし二人の子供も小さいし,家族で引っ越すとなると大変です。それでも,何とか仙台行きを決断したので伏古の道営高層団地の(当時はエレベーターも無い)5階から,布団や家財道具を担ぎ出す手伝いをしました。いよいよ出発の日。千歳の空港へ見送りに行きました。と,何と同僚は一人も見送りに来ていませんでした。同業他社の僕と,これも同業他社の叔父の二人だけの寂しい出発でした。その彼が数年後には仙台支社長になり,現地法人化の後には社長になり,定年間近には監査役か何かになりました。札幌営業所にもしばらく来ましたので,出世のお祝いの一言でもと,訪問し名刺交換しました。僕は懐かしいと思っていたのですが,彼はそれほど気にも掛けていませんでした。当時の僕の名刺がサラリーマン(ディレクター)だったのを見てか?理由は定かではありませんが?。それ以来,彼とは会わなくなりました。今思えば,あの時空港で,彼が成功してくれればいいと願って送り出したのも,自分の勝手な思い込みだけだったのだと知りました。人間関係は時間の経過とともに変化するものですね。空港に行くと,あの時の場面が今も浮かびます。

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