癖から国民性を見る。日本人は隠すのが好き。
若くして亡くなった江戸時代の天才的な学者・富永仲基(なかもと)1715年大阪生まれ。1746年31歳で死去。豊かな醤油屋に生まれて当時の大阪の文化を味わい、儒学・仏教・神道の研究にも私塾に入り打ち込んだ。西洋学を学んだ形跡もなく、当時は西洋といえば医学や農学や天文学・暦学へ行くのに、富永は仏教や儒教、神道の原典を読み漁り、それぞれの国民性の『癖』を掘り当てた。
加藤周一全集第3巻「富永仲基と石田梅岩」の317pより。『富永仲基は実に言語学の体系的研究だけでなく、彼がくせと名づけた国民性というか民族的傾向の概念に基づいた一種の文化人類学の可能性までも洞察していた。〈中略〉各民族が創造した宗教やイデオロギー体系と関係づけようと試みた。(仏道のくせは。幻術なり。幻術は今の飯縄(いづな)のことなり。天竺はこれを好む国にて。また儒道のくせは。文辞なり。文辞とは。今の弁舌なり。漢はこれを好む国にて。道を説き人を導くにも。是を上手にせざれば。信じて従うことなし)そして、日本について富永の『翁の文』という書物に『神道のくせは。神秘秘伝伝授にて。只物をかくすのがそのくせなり。凡そかくすということは。偽盗のその本にて。幻術や文辞は。見ても面白く、聞いても許されるところもあるけれど、かくすくせは甚だ劣れりと言うべし)隠すのは盗人のやることで、人品卑しい人のすること。
とにかく政治家・経済界・小さな企業を含めて隠し事が多い。道警の架空領収書疑惑も実は検察庁が同じような手口で税金をネコババしていたから全国の警察でも発生している事案で、さっぱり報道しなくなった。報道したら警察の記者クラブから追い出されるのでニュースが取れないので知っていても隠すのである。税金を泥棒し、企業や役所の統計もデータを改ざんして、約束を反故にして恥じない政治家の集団、時間が経過すれば忘れるだろうと隠し続ける。
しかし、根っこは富永仲基が18世紀に喝破した神道の持つモヤモヤ感(はっきり物を言わない。絵で言えば雲の役割か)にあるのかもしれず、戦争中も大本営が嘘に嘘を並べて兵士やその家族を塗炭の苦しみに追いやった。何も変わっていないのである。そこに『個人情報保護法』ができて、しめしめである。最大限、これを活用して隠し事を増やせる・・・である。個人=企業と読み替えれば、昨今の東芝や三菱自動車、神戸製鋼、さらにその決算を担う税理士集団の無能さ(金をもらうから提言や指南をできない)。福島原発の放射能が地球全体へ与えた被害について細かい報道も無い。チエルノヴイリ原発でローマのコロセウムの石に放射能が検出されているのである。富永仲基が生きていたら、どう言うだろうか。『かくす』は続くどこまでも。『見たくないから見ない』。『見えないものは存在しない』。しっぺ返しが来そうである。
隠ぺい癖。
神仏にも数知れないほどの宗派などもあって,それら神仏への信仰への教えに責任の全てがあるか否かは分かりませんが,国民性には違いはあるでしょうね。それにしても現代の世界に犯罪など無い真正直な国民性の国などあるのでしょうか?多かれ少なかれ嘘や隠し事は政治や社会構造の中で,常とう手段として使われているのではないでしょうか。本音と建て前と言いますが,物事には表も有れば,裏もありますね。例えば選挙戦では本来の目的である裏の真実は隠され,今朝もTVでの政見放送など,美しい夢物語が描かれています。常識人であれば,この程度の嘘や隠し事は見抜けますが,メディアも加担して真実を隠したり曲げたり一般大衆を騙す事態になれば,国営放送や新聞(中央紙)を信仰してやまない人たちには真実として吸収され洗脳されるでしょう。「隠し癖」は大きな国や組織ほど蔓延しているようにも思えます。何故なら大勢の人々をコントロールするのに都合が良いからでしょうね。些細なところでは,夫婦間でも隠し事はありますけどね。最近では鉄鋼や自動車産業でデータ改ざんなどが表ざたになっていますが,果たして他の企業は大丈夫なのでしょうか?悲しいことですが,先ずは全て疑ってみる事から始めなければいけませんね。
seto
先ほどハクチョウの集団がウトナイ湖に向って飛んでいきました。私の団地が美唄の宮島とウトナイ湖の
通り道なので、V字型で飛ぶ姿は圧巻です。雨の日は飛びません。夜中の1時過ぎにも飛んでいきます。
自然には嘘がないなあと思います。人間の作るもの、制度や仕組み、物、教育、マスコミ、言葉、嘘だらけ
だとハクチョウを見て感じます。農家の人はできればハクチョウが畑に来ないで欲しいと言ってました。脚に
外来種の草の種を付けてくるからです。『ハクチョウの野郎!』と怒ってます。それを聞いて複雑な気持ちに
なります。