今も昔も相変わらず時代遅れの筆者。
コーヒーブレーク。
世の中には誰よりも新しい物や面白さに敏感で、すぐに購入したり、自分の身に着けたりする人がいるものだ。それは、利用するだけではなくて、新しいものをみずから作り出す人ももちろんいる。情熱的で、飽きないで、寝るのを惜しんで遊びと仕事、発明に全霊を注ぐ。引きこもりながらでも楽しくてドキドキするものを作り出しているかもしれない。
筆者は流行に鈍感。CDが出たときも『それより、従来の大きなスピーカーで聞くステレオのLPレコードのほうが温かみやぬくもりがあって、音楽好きならこっちだよ』と宣言していたものである。映像はさすがに録画テープが切れたり、絡まったりでDVDにすぐに移行できたが、今度はパソコンの登場である。ワープロを使ったこともない男が突然、机の上にパソコンが置かれた。企画書はそれまで、事務の女性に原稿を渡して打ち込みをしてもらった。『できましたよ、これでいいですか』『ありがとう。』牧歌的な、余裕のある人の配置であった。それが全部自分でしなければいけない。営業兼企画書つくりである。
メールも始まった。総務から一斉メールが入ると腹が立ったのをいまでも覚えている。『命令口調の文体に怒りを覚えたのである』。単なる事務的な伝達であっても『社員の皆様、日々のお仕事お疲れ様です』ぐらいの前言があってもいいではないか?メッセージを読む前にまずメールの出だしでつまずく自分であった。営業職はえらいのだぞという気分がずっと続いてきた。何せ、儲けの頭なんだ。営業がいないとそもそも仕事が始まらない、事務仕事も営業がいないとあなた方の仕事は発生しないよと生意気な口調で、総務の人間と喧嘩した。『じゃ、あなた、総務の仕事をしてみなさい』と言われて、『そんなの朝飯前だ』とほらを吹いた。エクセルを上手に使えないのに。
そこに携帯電話も登場である。使用料金は全部会社持ちであったが、私が社内で一番、毎月高い請求金額が来るのが問題になった。それでも当時で月額1万5千円である。通勤電車の中、携帯で新聞を2~3紙ずっと読んでいたからである。冷たい視線を浴びた。注意されても、癖はなかなか直らないもので会社側も注意を諦めた。携帯電話の前はポケットベルで何本も紛失して始末書を書いた。保管や保全能力が欠落している自分に呆れる。加えて最近は老化も入り、『ここにおれは何をしに来たのか』。
「オレを一体、誰だと思ってるんだ!」。「誰だっけ?」。
僕も、忘れっぽくなりましたね。今、しようと思っていたことの直前に電話など入ると、電話を切って「さて、今、どこまで作業したんだっけ?」とか。暫く会わなかった人の名前を忘れたり。特に往年の洋画のスター名などは思い出せない事も多い。以前から電話番号は携帯でさえある程度暗記していたが、最近ではすっかりスマホに頼りっきりで、覚えようとしなくなった。つい先日もスマホのトラブルでデータが全て飛んだと思い、青くなった。クラウドに保存されていたらしく、何とか復帰してホッとした。手帳も持たないで、打ち合わせでも、全て頭のハード・ディスクに頼っていたが、この辺でそのHDも怪しくなってきたようだ。ところで、メモを取るようにも考え、実行してはみたものの、これもPCに頼り過ぎた後遺症で、漢字を忘れて、正しく書けなくなっている自分に気づいた。強がりで「オレを一体、誰だと思っているんだ!」。「ところで誰だっけ?」となるのだろうか?
seto
老人になると自分の子どもさえ忘れるといいますからお互いまだ健全ではないでしょうか。私も手帳を買いました。
そこに一日の予定と会った人、電話番号も記入するようにはしてますが、白紙の日々が続いています。キーボードを叩き
過ぎると、他人を叩く癖が増えるような気もしますが、この仮説はどうでしょうか?
昭和の尋ね人。
「明治生まれ?」なんて驚いていた僕たちも、とうとう「昭和生まれ?」と言われる立場になってしまいました。考えてみれば、平成も間もなく新しい元号に変わるわけで、仕方が無いですね。これまで「平成生まれです」なんて威張っていた若者たちも、大きな顔も出来なくなりそうですね。新しい元号とともに平和で豊かな暮らしが約束されれば良いのですが、果たして?どんな時代が待ち受けているのでしょうか。
seto
前向きにPCを導入しているなんて羨ましいですよ。会社の経費でMac購入者はたくさんいました。主にデザイン
室を持った人たちでソフトを入れると100万円を越す時代でした。ソフトなければただの箱がPCですから、ソフト
も高かったですね。新しいも実質は新しくないから気にしないでいきましょう。江戸時代の庶民感覚は明治終わっても
しっかり残ってますから。45年くらい経過しても消えることはありません。昭和の感覚もあと50年は寿命あります。
趣味が仕事の昔の少年。
デザインの世界で、マックが入って来た時代に、友人のデザイナーは、頑なに否定し続けた。デザインにパソコンは要らないと。腕は確かだったが、時代にどんどん置いて行かれてしまった。一方、僕は当時30万円のウインドウズのノートPCを買ったが使い物にならなかった。200万のウインドウズのデスクトップPCやドット・プリンターも役立たずだった。デスクトップのウインドウズ廉価版が出て17万円のタワーを2台入手してMOドライブやスキャナーまでセットで買ったが、当時は殆ど遊び半分だった。その頃にマックも進化して新しいモデルの登場とともに古い機種を手放す人たちが現れ、中古品を1万円ほどで入手し、少し手を入れて使ってみたところ、仕事に使える事がわかった。今まで無駄に投資したが、マックの中古品は最低の投資で、これが一番使えるPCだった。そんな訳でニュー・モデルが出るたびに中古品を入れ替えている。それでも、先日、初めてニュー・モデルの13インチのマック・ブック・プロを買った。20万円は痛かったが、さすがに機能は進化していた。今では新・旧のウインドウズやマックのPC数台で楽しく仕事をこなしている。しかしPCも機械に過ぎず、いつ壊れるか知れず、仕事に使うには1台では不安で、必ず同レベルの機種を数台で併用しなければ対応できない。トラブルはいつ起きるかは分からないからだ。「沢山あるのなら、1台くらい下さいよ!」と言われるが、そうも行かない。