久しぶりに加島祥造さんの自由訳「老子」から第50章「命を大切にする人は」。
人は生まれて、生き、
死んで、去ってゆく。
三十の年までは柔らかで若くて
生命(いのち)の仲間だといえる。
六十をすぎてからの三十年は
こわばって老いて
死に近づいてゆく。このふたつの三十の間の
壮年期の三十年は、まあ
しきりに動きまわって、どんどん
固いものに近づいてゆく期間だよ。
どうしてこんなサイクルになるかって?
それはね、ひとが
生きるための競争に
こだわりすぎるからだよ。
聞いたことがあるーーーー
生と死は同じサイクルのなかにある、
それを知って、
命をそっと大事にする人は
旅をしてもけっして
猛獣のいるところへは行かない。
軍隊に入れられても
武器を取る役には廻らない。
だからその人生では
虎の爪や犀のツメに出くわさないし
兇暴な人物の刃にかからない。
それというのも
生をとても大事にしているからなんだ。
自分の命を大切にしている限り
死はつけいるすきがないんだ。
*PS:このブログを書いてから約1年10ヶ月経過して、私の周りでも様々な人間模様があった。同期で入社しても、ある人は次長になるがある人は平のまま。それは平の人から私への愚痴のメールでわかったことだが、『会社人生がすべてではない。いずれ終わるレースでしかない。家庭を持続させるだけですごい事業を毎日あなたはしているわけで、それだけでもえらいよ』と返信したが、通じているかどうか。私がアルバイトをしている小さな会社でも人の出入りがある。頑なな人は、衝突したら弱い。引くことを知らないので会社を去ることが多い。『誰が妥協するものか』と思い込み、まだまだ働ける能力があるのに捨てていく。プライドはときに人生を狂わせる。定年後のプライドならまだいいが、働き盛りで子供の教育や住宅ローンを抱える身なら、さらに自身の健康を害するまで他責の世界に入ると、私が心臓で倒れた二の舞になる。世間に甘えることも学びたい。


人の生き方は様々ですね。僕の生き方は「仕事半分遊び半分主義」と言っています。遊びと言ったら誤解されるのですが、ギャンブルやお酒で紛らすわけではありません。気を張って仕事をしながら、気を抜く時間を半分持つのです。それが仮眠だったり、趣味だったり、誰も気づかないところで十分に気を抜いています。普通の人は力一杯働いて、休日を取って休みますが、実際には休めているかと言えば家事や育児や家庭サービスやゴルフやお酒やスキーやスノボやショッピングと結構多忙で休んでいませんね。一日ごろごろ出来る人は定年退職の人くらいでしょう。そこで僕は休日に固めて休むことは難しいので、普段から遊び半分を取り入れています。このほうが自分のペースを保てて快適です。
父の生きざまを、今になってようやく分かるようになりました。長男坊が予科練に志願した時代に父は軍隊になるのを逃れ、軍需工場で働き、戦災の真っただ中の東京を引き払って田舎に疎開。5人の子供を育て、慣れない農業や林業で生計を立てました。そのやり方は、何でも他人の半分主義でした。田畑の広さも他の家の半分、炭焼き窯も他の家が100俵窯なら50俵窯と、自分の体力に合わせて、初めから半分しかしませんでした。ただ、田舎の人たちとの違いは、釣りを楽しんだり、絵を描いたり、詩を詠んだり、映画を観たり、趣味をも楽しんでいた事でした。そんな父を甥っ子が「爺ちゃんは腑抜けになった」と言いました。彼は30代でまだまだ健康で血の気も多かったので、きっとそう見えたのでしょう。若い時の僕も、戦争にも行かず田舎に引きこもった父を軽蔑した時期もありましたが、そうやって96歳までボケもしないで生き抜いた父の事を少しは理解できる歳になりました。
「眠ることは、死を前借りしているのである」と何処かで聞きました。人間、眠ることがいちばん死を遠ざけるということらしいです。先の記事でも平凡は、すごく尊いものであること、ひしと感じました。安眠ほど幸福な時間はりません。どうか主様も、よく眠れますように。
人生の三分の一は寝てますから、60歳の人は20年しか生きていない、活動していないことになります。90歳でも30年活動。
長生きするわけです。変な理屈ですが。最近、20代30代40代の激しい飛び込みや新規開拓の疲労からか一日1万歩歩くとさす
がに疲れが溜まります。帰りの電車で眠くなります。熟睡した朝は気持ちがいい。