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前回(5回)ではペストによる人口の減少について、国別・地域別に書いたが、毎日暮らす人々にとって、その日常生活はどう変わっていったのか、生き残った人びとはどこへ移動して自らの人生を組み立てていったのか。家族や友人・知人を失い絶望的な気持ちになったことは疑えない。

しかし、「ああ、悲しいかな。このように世界が一新された後でさえ、この世界は少しも良い方向には変わらなかったのだ。その後、人びとは、以前よりもいっそう多くの財産を所有したにもかかわらず、ますます欲張りでけちになった。さらにまた、貪欲になった人々は訴訟や口論や裁判沙汰で心を乱すばかりであった。神から放たれたこの種の恐るべき疫病が止んでから後でも、諸国の王と領主の間には和睦は結ばれなかった。それどころかフランス王と教会に歯向かう敵対者どもは以前よりもいっそう強力かつ邪悪なものとなり、海や陸で戦争が引き起こされた」(ヴネッド・フランス年代史)。

人口が減り、労働者不足になり、その賃金は上昇して給与が上がり、暮らしが楽になったのである。フィレンツェでは、ペスト流行で田舎へ逃げた人々が街に戻ってきた。「人々は都市に戻りはじめ、家の中に入って家具の具合を調べ始めた。しかし、財産があふれるほどありながらも、そこに主人のいない家が数多くあった。・・・・間もなく財産を相続する者が姿を見せ始めた。こうして疫病前には一文無しだった者が、相続人として金持ちになった。・・・こうして相続人として不適格と思われる人が、男も女も、衣服や馬に金をかけて贅沢な暮らしを始めた」(フィレンツェ年代記・マルキオンネ)

死者の財産が舞い込んできたのである。地域や時代を問わず、どこでもあることだ。ペスト研究者にはこの点についての論究が少ないと著者(宮崎楊弘)は言う。彼らはそれを消費して生を謳歌し、贅沢を堪能し、怠惰と消費にうつつを抜かした(全員ではないと思うが・・筆者)

都市での暮らしが、その賃金上昇や歓楽があって、農村は放棄されて廃村も目立ってきた。人口減で食糧の需要も減り、耕作を放棄する農民は都市へ都市へ移動したのである。オオカミやイノシシ、熊など野生動物が跋扈してきた。イングランドでは1350年から1500年にかけて1300か所以上の村が廃村になる。したがって、これまで農民を支配下に置いていた領主たちも没落していった。領主制そのものが崩壊していった。働く者がいなくなったからである。

ペストの流行は、しかし、制度や行政面で新しい措置も講じられるようになった。それは経験的に学んだのは、都市を清潔にすることであった。井戸や泉の洗浄、上水道を設置、市内に堆積した汚物を排除、街路を舗装・清掃、不要な樹木を伐採して風通しや日当たりを良くし、墓地を整備・郊外へ移転した。また近隣からペスト情報が入れば、市門の閉鎖に踏み切った。公衆衛生で真っ先に手をつけた町はベネチアであった。港町でもあって、ここから港での検疫がどれだけ大事か、現在につながる貿易港での検疫制度はペスト菌の伝播が作ったともいえる。荷物の隔離措置である。1348年3月、ベネチアに入国する船は40日間停船・隔離期間を設けたのである。マルセイユでも1408年、検疫制度を採用した。

また、公認の機関が発券する健康通行証というペストにかかっていないことを証明する旅券も出した。後に近代国家が発券する旅券の起源だ。15世紀イタリアから始まったのである。「健康通行証は病気の拡大を阻止する非常線」。また、死亡告知表を正確に記す習慣、残す習慣も涵養した。さらに、危機管理として、生き残った人々への食料供給のために備蓄と穀物倉庫の確保など現代の危機管理と変わらない制度をイタリアでは制度化していた。

明日は最終回、現代に生きるペストです。

  1. 領主や殿様(今で言う国や自治体)は作物や利益を得ていた構図が大きく変化したのも疫病による人口減が原因だったと言う訳ですね。農業従事者が減少すれば、食物は輸入しなければならないでしょうから、交易が盛んになって港街は栄えたのでしょうね。飛行機の無い時代の港町は現代の空港の役目を果たして、その機能も制度も発達した訳ですね。それらのノウハウが現代にも大いに生かされているのでしょうね。検疫の歴史も疫病が残した遺産のようなものですね。

    • 誰かが犠牲になって新しい制度ができるのはいいのですが、銃や核や重金属を撒き散らしたチッソ、毒ガス兵器開発で
      デュポンなど黒死病を読んでいて、企業の利益のためなら、平気で棄民していく経営者や役人の多いことを思います。自然災害
      が起きたことによる根本に誰しもあるエゴの露。しかし、ビザの成立(国・領土を超えるときの健康保険証の必要から)と
      輸入作物の港の沖合いにしばらく停泊させる検疫。今は過去につながってることがわかります。

  2. 戦災で全滅した東京も復興後は、たちまち人口集中したように、傷が癒えれば、喉元過ぎれば、痛さも暑さも忘れる人間の学習能力の無さも疑問ですね。それも元々の住人たちばかりか、農村地帯や地方都市からも移住する始末です。今では過密を通り越して危険な状態です。我が家も焼け出されて、7人家族のうち姉たち2人が東京に戻って今も暮らしています。僕も中学卒業と同時に東京へ移住すると言う母に反対して父の故郷に残りました。時折訪ねる東京はとても住む気にはなれません。都会での暮らしも一種の疫病のようなもので、その都会病連鎖は今も続いていますね。

    • 都会病は、メディアや企業、政治が人工的に作り出されたものです。そこへ突然の自然が混入するのが、たとえば
      大雨やニュースを読み上げるスタジオが突然ゆれる地震とか雷落下ですか。しかし、それが終われば、都会病が始まり
      ます。ビルに囲まれて、ガラスにふさがれているとたぶんこれはわからないと思います。紙と通達とメール、法律用語で
      生きている官僚も、紙の山を作ります。羊たちの沈黙ならず、改ざんですか?

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