中動態の世界(意志と責任の考古学)國分功一郎
第16回小林秀雄賞受賞作品で気にはなっていたが、難しい。中動態という新語。日常生活で、私たちが決断していること、行動していること、判断していることは、よくよく分析すると『強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。そうした事態は十分考えられる』。
咄嗟のことで反応できなくて、相手の言うままにうなずいてしまうとか、何も言わないことが同意と勘違いされたり、勘違いのまま釈明は面倒なのでそのままにしておくとか現実の暮らしに溢れるほどある。自発的か受動的という反対語ではない物事のながめ方を能動と中動と見れば、簡単に記述できるのだと。文法で能動態(active voice)と受動態(passive voice)を教えられる、しかもこの二区分しかないと教えられる。しかもこれは対立語である。そういう思考回路に世界中の人ははまっているし、日常生活で使われている。
言語の歴史においてこの区分は新しく、実は能動態の対立語は中動態であるとしたら。この本はその分析をギリシャ語・アリストテレスの本に遡り実証しようとする野心的な本である。たとえば『何かをやめられないのは(受動)、お前の意志が弱いから(能動)だよ』とは言えない。(行為は意志を原因としない)。現在の脳神経科学では、これは常識になっている。しかも、能動態と受動態という言語の区別は多くの言語ではしていない。さらにインド・ヨーロッパ語族の源流を訪ねても、この区別は本質的な区別ではない。能動態の対立語は中動態である。
中動態っていったい何?その具体的な内容が『強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している』ような事態である。言葉にしにくいが、曖昧なままで事態は過ぎてゆく。私たちの日常生活はほとんどこの形態で推移していると言っても過言ではない。こういう言葉使いはプラス志向とかマイナス志向にも反映されて、苦しんでる人をさらに苦しめている現実がある。意志があるから行為が生じるわけではないのである。アルコール中毒も『止めようという意志があるから止めれるものではない』。むしろ原因はそこに逃げなければならなかった事件がきっとあるはずだ。そこを求めよという話になる。
著者は本のプロローグでこんな対話を載せています。中動態の生き方の例ではないか。
ーちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね。
『そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しんだってこともわかってないのね』
ーああ、それはちょっとわかるかもしれないです。
『だから健康な人と出会うと、寂しいって感じちゃう』
ーそれは「この人は自分とは違う・・・』って感じるということですか?
『そういうものもあるかもしれないけど、人とのほどよい距離に耐えられない』
≪中略≫
*ここで人(他人)とのほどよい距離に耐えらえる大切を書いたが、友人でも妻子とでも同じである。
自分でうまく相手を選ぶ、そもそも人間関係を選んでいいなんて知らないんです。
『ちょっと親しくなると、”全部わかってほしい”になる。相手と自分がピッタリ重なりあって(2個で一つ)の関係になろうとしてしまう。自分以外は見ないでほしい。自分以外としゃべってほしくない』
とりあえず。
男性は能動的で、女性は受動的だ。などと知らないうちに刷り込まれていたような気がしますが、現代には余り通用していないようにも思えますね。白黒ハッキリしろ!とも、YESか?NO!かとも、究極の選択を強いられる事が常識のように、善と悪、強者と弱者、数え上げればキリが無いほどに極論はありますね。だからと言って、皆んなが白と黒に分類されているかと言えば、我々のように黄色の者も居れば、ハーフの者も居る訳で、社会生活や日常会話の中にも、ファジーと言われる部分がほとんどかも知れません。今風に言えば「とりあえず」の多用ですか。「ハイ!今すぐやります!」とは言わずに「とりあえず、やって見ますか?」と、一見、嫌々ともとれる発言で物事が始まる事のほうが多い気もします。ある大手デパートの若いマーケ担当者が、大勢の取引先の集まるゴルフコンペのスタートの前に、「おはようございます。それでは皆さん、とりあえず、今日は楽しく・・・」と挨拶しました。すかさず支店長さんが「君、とりあえずは無いだろう?」と、集まった得意先の人たちも失笑した事を思い出しました。
seto
反対語の横行で苦しんでいる人が多い世の中ですね。男と女でも男には女性遺伝子が半分くらい母方から伝わり、女性も
父親から男遺伝子が伝わっているわけで、人工的に『男はこうあるべき』『女はこうすれ』という刷り込まれた、世間の
要望で教育課程でほとんど作られたものであると思うと楽になりますね。それより他人に優しく、困った人がいれば助ける
という人として基本の感情があればもう少し,生きやすい世の中になるはずです。そのためには隣の人を大事にすること
でしょうね。これが意外や難しい。
磁石の同極同士のように。
曖昧ではあっても、適度な(適当な)距離を置く人間関係はお互いに踏み込み過ぎずに、着かず離れず、旨く行くように思います。恋愛などにおいて若い時は独占欲も強いですが、結婚などして年齢を重ねるとともに、お互いの間に距離を保つようになるものですね。しかし、いつまで経っても干渉され続けると居心地も悪くなって離婚沙汰などにも発展し兼ねませんね。所詮、他人同士で、流れる血液も、性格も、価値観も全く違う者同士の共同生活が結婚ですから、他人を認め合えば良いものを、ついつい自己顕示欲とやらが強い場合には相手を追い詰めて接近すればするほど、磁石の同極同士のように、近づけば地下ずくほど、かえって反発して離れる原因にもなりますね。おたがいに干渉し過ぎず、曖昧な距離感を大切にしたいですよね。
seto
磁石の同極が離れるためには、相当なエネルギーが必要ですよ。離婚は結婚の10倍の心労・苦労・お金も必要でメンドウ。
そう考えるとATM同士が暮らしているのが現実かも。私の周りには、夫に先立たれた奥さんひとり暮らしが3人いて
挨拶はしますが、スポーツジムに通ったり、ネコを2匹飼ったり、娘の孫を預かったり、『使えるおばあちゃん』になってます。
生命保険で家のリフォームや新車を買ったり存分に使ってます。しかし、共通は兄弟姉妹と子どもたちとの交流を絶やしていない
ことです。いいなあと思える人間関係の距離はおのずと学んでいきます。
時には家族のように。
中動態とは余り聞きなれない言葉でしたが、「居心地の良さ」にもつながるように思います。高校生の時に実家から離れて全寮制を選んだ僕でしたが、知らず知らずの内に、知り合った彼女の家に出入り?するようになりました。その家のお母さんは縫物の内職をしていて、父親はお酒と賭け事で殆ど家に居つきませんでした。それでもお母さんは黙々と内職と家事をしながら穏やかに3人の子供たちの面倒と、おまけに、他人の僕までも受け入れてくれました。何をするでもなく、愚痴の一つもこぼさず、ごく普通に姉妹弟と時々夕飯を一緒に食べさせてくれたり、まるで家族同然のように扱ってくれました。献身的で、親身に世話を焼いてくれるより、余り気にされずに、くつろげた、実家以上に居心地の良い家でした。他人までも受け入れてくれた心の器の大きなお母さんでした。
seto
私も『中道態』という漢字で、何?これ?でしたが、実に古い言葉で、ギリシャのアリストテレスにまで遡ります。日常生活は
ほとんど中道態で生きているともいえるほどです。あるとき、この国の教育で『やれ、ディベードの訓練をして、欧米各国の外交
議論で勝つために、小さなころから弁論訓練を』という議論がありました。プレゼンテーションというのでしょうか?そんなことを
していたら毎日の暮らしはギスギスして友達もなくします。ビジネスでも普通の言葉で普通の振る舞いでタンタンとお話しするほうが
これからの時代の主流になる、普段の人間関係を大事にして仕事をもらう。一般競争入札はもう止めて、技術レベルで競う仕事の出し
方に変更すると公平になるし、丸投げの丸投げにならないと思います。なんでも無理しない生き方、私にはそれが中道態の意味のように
思います。