わたしは29歳で結婚したが、結婚までに私の両親、妹、兄から猛反対をされて勘当寸前までいった。その理由はたわいもないことなので書かないが、この結婚は兄弟間の仲を割いてしまう危機感が両親にあったのである。(現在は、そうでもないが後遺症はある)。しょうがないなあ、まあいいかと結婚した。

その間、いろいろ相談に乗ってくれた人に街の釣具屋さんの社長がいる。営業の休憩場所として使わせてもらった。結婚について、悩みを打ち明けて相談に乗ってもらい気が軽くなった。敬虔なクリスチャンであった。美味しい緑茶を飲みながら、社長のお父さんが残した書画や油絵・彫刻も見せてもらった。日本刀もあって、道立近代美術館の学芸員も見にくるそうだ。こういう作品がたくさんあって、長男の社長が預かっているわけである。自分も歳をとってくるから、この美術品をどこか保存・展示してくれる場所を探して、気にいった数点を残して寄贈しようとしたら、兄弟から待ったがかかった話をしてくれた。それを売ってお金にして財産分与してほしいと。

しかし、社長は頑として譲らず、函館の美術館に寄贈した。そういうこともあり、兄弟間とはいえ『意義アリ!』は面倒なものであるという体験を私の結婚同様していたのである。その後、筆者は2回の転職をして28年勤務できた会社に就職したときは、社長から三越の押印された地金の金5グラムを就職祝いにもらった。純金のプレゼントは子どもたちや孫たちへ、平素しているみたいだが、行きすがりの一営業マンに親身に結婚相談、就職祝いに金をいただく光栄に欲するとは嬉しい限りである。いまでも街中のギャラリー周りをご夫婦でしていて、挨拶をしたら、『お茶を飲みに来なさい』と言われるが、お店が廃業されて、自宅の居間に入ることになるので遠慮している。私の恩人である。5グラムの純金は34年間、自宅に置いてある。一度だけ、娘に出産記念に『持っていけ』と5グラム金を渡したが『要らない、くれるなら現金を』といわれた。わかっていない金の価値。

  1. 花束の贈り物。

    永年勤続賞で貰ったモンブランの万年筆も、ろくに使わずに捨てた。銀杯や金杯もどこかの棚に潜っているが見た事も無い。沢山あったカメラも今は無い。腕時計も今は一つも持っていない。金目の物には全く縁が無い僕ですが、或る会社を辞めた時に、社員の一人から貰ったモンブランのボールペンだけは、今も大事に使っている。今やPC時代で筆記用具は殆ど使わなくなったためか、このボールペン一本で十分になった。替え芯は3,000円もするが、使用頻度も低いせいか、めったに替える事も無い。その相手は、その会社への就職に便宜を図ってあげた事はあっても、安給料の中から2万~4万円ほどもするボールペンをくれたのには恐縮するとともに、ボールペンを使うたびにその人の事を思い出す。かと言ってその後会っても居ない不思議な関係だ。贈り物にもいろいろあるが、或る時、仲間で出かけた旅行先で知り合った女性が花束を持って会社に現れた時には面食らった。嬉しい反面、他の社員の前で赤面してしまった。その話題は社内で暫くの間持ち切りだった。花束の贈り物を通して、女性の価値観と男の僕の価値観の違いを知った一瞬でもあった。幾つになっても贈り物はうれしいものだ。母の日も近いが、孝行をしたい時には親は無し。

    • モンブランのボールペンは凄いですね。勤めを紹介しても現在、そこまでする人は稀ではないですか。女性からは何をもらっても
      筆者は嬉しい!!

  2. いつまでも忘れない事。

    恩人は居ましたね。北海道に来てアパートに住んで、近所のラーメン店のオヤジさんには随分お世話に成りました。ホッケが美味しくてラーメンよりも毎日毎日ホッケ定食ばかり食べに行きました。質流れ店て買った不良品のストーブが不完全燃焼でアワや、一酸化炭素中毒に成りかけた際にはストーブを無期限で貸してくれました。また喫茶店のママさんは、まるで母親のように叱ってもくれました。毎日立ち寄っては顔見知りの予備校生たちとギターを弾いてフォークソングなどを歌い、まるで我が家のようでした。仕事面では初めてのミスを上司にとがめられた時に、間に入ってくれた専務にも助けられました。また、或る得意先の社長や、役員にもお世話になって仕事面では随分助けられました。その反面、社内ではいじめられた事も多かったですね。自分の会社よりも、得意先の方が僕を認めてくれたことの方が多かったようです。それ以来、外勤が楽しくなりました。恩人は一生忘れませんが、いじ悪された上司や知人の事も忘れませんね。

    • 恩人と意地悪男はどちらも記憶に残りますが、果たして彼らが気付いているかどうかはわかりません。

  3. 恩人は身近にいました。

    今、思えば、一番の恩人は「父・母」ですね。6人もの(幼児期に1人死去)子供を東京で育て、末っ子の僕は、親の苦労を何も知らずに「どこかの橋の下で拾われたに違いない」と思っていましたね。兄姉たちとは年が離れていて戦争も知りませんが、空襲の都心で父母や姉たちが、どんな苦労をしたのか想像すらできませんね。一家の疎開先の田舎で、小学校では好きな絵を描く絵の具も満足に変えなかったなど地元の恵まれた子たちとの格差に悲しい思いをした事もありましたが、貧しくても食べ物にも恵まれ、元気に育ったた自分は幸せ者だと思います。今は亡き父・母に今さらながらですが「恩」を感じますね。

    • いまがまあまあの幸せなら、親への感謝は強いですが、複雑な感情の人も多いですね。偶然に生まれるわけですから、そこに
      本人の意思がない分、運・不運は発生します。親の虐待にさらされる子どもをみていて泣きたくなります。

  4. お昼休みの使者

    自らの苦悩を相談したいとき、身近な人物ではなく、自分から少し離れたほうが打ち明けやすいことありますよね。男はいつの年でもバーとか、カフェとか隠れ家を探しますよね。(男は悩みの共有(シェアリング)より、一対一の解決を望むことが多いですよね。これも男女に刻まれたなにかの違いでしょうか?) 
    主の隠れ家は、街の釣具屋さんで、しかもクリスチャン。やさしい詩を読んだあとの気分。

    • 同業者や同級生とか身近にいて、自分を一見、熟知している人は相談しにくい場合が多いですね。私への偏見をすでに持たれて
      いて、その観念を持ちながら、話を聞かれるからです。軽い相談ならそれはいいのですが。釣具屋さんは私より20歳も年長でした。

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