人間の嫌いな人にとってSNSは最適アイテム?
先週、『観光客の哲学』で、もともと人間は人間を好きではない、人間は社会をつくりたくない。そういう文章を発見して、少し考えてみた。約40年の会社生活で出会った人々、仕事で世話になった人、喫茶店で仕事や私的なことで話し合った人たちを思い出して書いている。人間が人間を嫌うとはどういうことだろう。その人が育つ家庭から見て行かないとわからないところもある。
自分の趣味や世界にずけずけ入ってくることが許せない、知らない人はシャットアウト。他人に自分のあらぬことを噂されて人間不信に陥っているから,構わないでくれ、ひとりにしてくれというサインも多い。スマホいじりをしていて声をかけると突然不機嫌になる人。食卓で娘がスマホをイジルと雷を落とすお父さんもいるが、そのお父さんも仕事のメールや電話だとすぐに出てしまうから、説得力に乏しい。死んだり生まれたりした電話やメールは致し方ないとして『ゆっくり会話しながら話し合う家庭は稀のような気がする』とは筆者の感想である。私自身も下手だ。そういう場はほとんど母親が仕切るので、父親の出番は少ないし、存在感は薄い。父親(社会でもまれて疲れている)こそ最初に人間嫌いになるのではないかと思えるくらいだ。『嫌々ながらサラリーマンになり』『社長や部長の悪巧みで課長にされて』数字と人事に追いまくられる毎日なら、『人間嫌い』になるのもそう遠くはない。
意外やひとりに強い人は人間嫌いが少ないように思える。他人との距離感が絶妙だからだ。45%は相手にも楽しいところや美点もあるわけだから、ここは我慢して生きていこうと思い直して通勤をしたいものである。個人という言葉が明治時代、in-dividualに訳語が当てられた。inは否定冠詞でdividualは『分けられる』individualは分けられないものとして個人をとらえたが、一つの神話で、西洋では個人が成立して、日本ではその個人が成立していない、明治のインテリ層から敗戦後の日本で大ブームを起こした個人主義であるが、西洋の中世史やペストの歴史や教会の歴史、精神分析の本をペラペラめくるとそこにあるのは個人の空虚を埋める『神(GOD』であったり『THE BOOK(聖書)』や聖人であったりするから、音声言語としてのアルファベットを聞くと、いかにも個人がありそうだが、内実は似たり寄ったりの誰かに依存している気もするのである。
顔を突き合わせの人間同士は疲れるが、スマホだけの連絡のほうが気楽な時代かもしれないが、最近はそれもうざったくて、本音は独りにしてくれという中学・高校生も多いと雑誌に書いてあった。人間が成熟するのは、ひとりの時間にしていることで成長を遂げるものが多い。もちろん楽しい会話もあるだろうけど静かなひとりの充実した時間を過ごしたい希望はあるが、空間や経済基盤があっての話だから、カラダやココロがヘトヘトになるまで働かないと生きていけない人も多い世界だから『お前の言う時間なんて、とても持てませんよ』で終わるかもしれません。
昔の少年。
独りになれる時間は少ないですね。クルマの運転中と僅かな隙間の時間。今、コメントしている時間くらいでしょうか。必ず家族や会社や顧客や他人に接し続ける毎日。人疲れしますね。独りの時間を持つには、何かを犠牲にして生活を変えて行かなければならないでしょうね。独りで楽しめる事を始めるか、何もしない時間を作るか、どこかに引きこもるか、いずれにしてもスマホで呼び出されそうですね。「今、どこに居るの?」「一体何しているの?」と。今では、誰にも邪魔されずに独りの時間を作る事ほど難しい事は有りませんね。
seto
スマホや携帯があるとダメですね。パソコンによるメールのほうが自由度高いです。開かないうちは自分の自由があります。