手帳3

49歳のときに急性心筋梗塞で60日間入院。安静にしていて、気になるのが仕事であった。妻に携帯電話を持ってきてもらい、日ごろ付き合いのあるお客さんの電話番号を一覧表にしてベッドから見える壁に貼った。よーしこれでいいぞ。いつでも病室から仕事をするんだという意気込みというか自分のプライドであった。

いま思えばサラリーマンの悲しい性(さが)だ。私の入院は、別な営業からすでに取引先へ連絡をしているので、仕事の電話をかけてくる人はいなかった。それでも仕事は進行していた。驚くなかれ、入院した2か月間、月の売り上げと利益がいつもの月より増えている。

請求書だけは私のチェックが必要なので、自宅へFAXが帯のように流れ、担当者へ請求書送付OKの電話をする。別に自分がいなくても会社は困らないと実感した事件だ。困らないどころか、利益を増やしている。内心、「日頃の付き合いがあったればこそ、私の窮地に、応援の発注が来ているんだ」と傲慢に思っていたりする。負け惜しみだ。

しかし、退屈だ。とにかく退屈だ。病室で企画書を書いてなんになる!?誰が営業するんだ?!いつも使ってる手帳を開いても書かれてあるのは、精密検査の日、カテーテル実施日くらいであとは空欄・空白。誰々さんがお見舞いで菓子を持参程度。打ち合わせもなければイベント実施日もない。

そういえば、ビジネス手帳をスケジュールでびっしり書かれてあるのを見てニヤニヤしていた先代の社長がいたことを思いだした。手帳を予定で埋めることでどこか安心する、サラリーマンは本物のマゾ集団かもしれないなどと妄想していた。予定の文字に自縛されて快感を覚えているわけだ。

時間っていったいなんだろうと思う。入院してわかる時間は太陽が昇り、沈み、朝が来て、夜が来て、また朝が来てを繰り返す静かな時間だ。その間にまずいご飯はあるけれど。「手帳を見れば、彼が仕事をしているかしていないか一目瞭然だ」と叫んでいた役員もいた。彼の手帳は予定で真っ黒だが、稼いだのはゼロ、しかし莫大な経費を食っていた。

手帳、この不思議な存在・・・。自分が必要とされているという実感を強く持つためのツールと言い換えたらどうだろうか。ときどき空を見上げたり、花を見たり、公園の緑を観察したり、自然に近づくと濃すぎる人間関係も薄まり、気持ちが楽になる。空白な手帳部分を無理して埋める必要はない。実は時間が空いていても「その時間はちょっと無理」と言い、心身を休ませる賢さを持ちたいものだ。皆さん、心身症にはご用心!!

  1. 入院。それも、きっと現役バリバリの営業マンの過労から来た結果だと思います。僕は入院こそしなかったが何度か倒れた事はありました。徹夜作業などの過労からで、病院に立ち寄り点滴後出社。今思えば随分ムリをしていたのだと思います。システム手帳が流行った走りの頃、有名な外国メーカー製の分厚く硬い皮の表紙のモノを肌身離さず持ち歩いた事を思い出しました。バインダー・リングのついた大げさなヤツです。スケジュールから何から何まで全てがこの一冊に集約され、オプションの名刺ホルダーには交わして間もない名刺、クリア・ポケットには広告制作用の写真ポジフイルムが、皮表紙裏のポケットは財布にもなっていました。これ一冊さえあれば仕事は完璧?でした。携帯電話など無かった当時の営業マンはポケ・ベルと公衆電話で慌しい営業活動の毎日でしたね。クルマで移動しながら、転々と公衆電話に飛び込み、その都度、電話アドレスも書かれたシステム手帳を持ち込んで電話機の上で広げたりして活用していました。師走の掻き入れ時の多忙な或る日、ふと気がつけば手帳が無い?。しかし何処の電話BOXに置き忘れたのか?片っ端から後を辿れど見つからなく途方に暮れて仕方なく社に戻ると、何と同業他社の営業の方から電話で公衆電話BOXの中で見つけて保管しているとの連絡が入っていました。同業だけに中身はバレバレで気恥ずかしくもあったが、でも営業の生命線が無くならなくてホッとしました。その後システム手帳を使うのはやめ、内ポケットにペラペラの薄い手帳を持つ事にしました。携帯電話の普及のお陰で電話アドレス帳も不要となり電話BOXにもお世話にならなくなりました。しかし、あの分厚いシステム手帳は仕事人を自負する時代のシンボルだったに違いありません。今ではパソコンが記憶のほとんどを担ってくれるので頭脳負担も鞄も軽くなりました。時代も変わって営業スタイルもすっかり変わった今は、昔に比べれば、むしろ時間に余裕が出来たような気がします。しかしあの時代に、もしもスマホみたいなモノ持っていたのは映画の中の007くらいでしたよね。今では小学生までもが007ですよ。

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