11月14日の『ソラリス』に続いて、第二回目である。私たちには好奇心や向上心がそれぞれにあって努力や知ろうとする働きがあると思い込まされている。しかし、身の回りの人間や60年以上、私が付き合ってきた一人ひとり、自分自身だけ大好きで自国の国民さえ虐殺したりする政治家を考えると『果たして人間全員に向上心があるのだろうか?』と否定的にもなる。SF小説『ソラリス』のすごいところは、私たちの想像力や思考の延長に『ソラリス』があるわけではなくて、全然、何が何だかわからないが、絶対的な他者としてそこに存在して蠢いていること。それをまず認めなさいと読者に迫ってくることだ。たとえば、ソラリスを探検するために派遣された船団がそのソラリスの正体をめぐって対立する。・・・・こうだ・・・・。(図書刊行会 30p)

論争の対象となったのは、海である。分析の結果に基づいて、それが有機的な形成物であることは認められていた(それを生物と呼ぶことは、当時はまだあえて誰もしなかったのだが)。しかし、生物学者たちはそれを何か巨大な癒合体のような、原始的な形成物であると考えた---つまり、それはおそろしく巨大に成長した、流動性を持った一つの細胞のようなもので(ただし、生物学者たちはそれを”前生物形成”と呼んだ)、それが場所によっては百マイルもの深さに達するゼリー状の覆いで惑星全体を取り囲んでいるのだ、というわけである。それに対して天文学者と物理学者たちは、この海は惑星の軌道形成に積極的に影響を及ぼすことができる以上、並外れて高度に組織された構造物に違いない、ひょっとしたら組成の複雑さにおいては地球の有機体を凌駕するのもではないか、と主張した。というのも、ソラリスの振る舞いを説明できる、海以外のいかなる理由も発見されなかったからである。そればかりか惑星物理学者たちは、原形質状(プラズマ)の海で生じるある種の一連の変化と、極地的に計測された重力ポテンシャルとの間に関係があることを発見した。重力ポテンシャルは実際、海の『部質代謝』に応じて変化していたのである。

一読して、上記の文章がイメージできるだろうか?こうした表現は随所に出てくる。さらに海の意思は『擬態』として、人間の大脳の中の無意識部分に入り込み思い出や記憶にある恋人やトラウマを目の前に亜人間として出現させて会話をするが、しかし、どこか違う。元恋人ではあったのに変だ。主人公は彼女に感情移入をして恋人以上にはなっていくが、しかし、そこはそこ。別な生物、絶対他者なのである。このジレンマに主人公は最後はどいう振る舞いに向かうのか===という曖昧な結論で終わるSFだ。映画化された『ソラリス』はどこか地球上の家族(親や母やへ)の郷愁で終わるらしいが、作者のレムはダメ押しをした。ペケだと。まったくわからない未知の存在として、理解不能の存在として表現したかったのではないか。読んでいる私も何がなんだかわからなくなるが、そういう理解も実はあるし、むしろ量的にはそちらのほうが圧倒的に多いのだと、世界を見て、また、自分の身近なひとりひとりを見ても理解不能も、そして自分自身も実はわからないのだ。

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