松岡正剛「文明の奥と底」(角川ソフィア文庫)の巻末エセイに「何が隠されてきたのか」というタイトルで3p書かれていた。「文化は変更が起こりやすく、文明は訂正がききにくい。そのため文明はしばしば大きな嘘をついたままになる・・・・その後の文明の歴史のなかで、(大きな嘘は)誇張や粉飾や糊塗を加えた。文書書き換えは、いまに始まったことではない。ジラールはそれを”世の初めから隠されていること”と言った。文明は”強奪”、”横取り”、”吸収”がおハコなのであるおまけにこれらの行為の大半は腕に縒(よ)りをかけて徹底美化されてきた。そのうち《勝ち組》のリクツばかりがはびこるようになったのである」404p

翻って現代を見ると、現代は「強奪された人々」「横取りされた人々」「吸収された人々」が様々な場面で、氾濫を起こしている時代とも見えるのである。テロであったり、難民化であったり・・・。そのうち「勝ち組」のリクツは、すでに既得権を持ち、財産を持ち、借金もなく悠悠な暮らしを甘受できる、また世間の常識に沿った言葉を習い、語れる人々で、どちらかといえばヨーロッパにまかれたアーリア神話がその典型としてある。いわゆる賢い人々、またはそれに憧れるように教育された人々でマスコミに従事する人々はほぼそういう価値観に染まっていると考えて間違いはないと思う。彼らがいまではネットニュースを選別・配信している。

この本は、しかし、最初の1ページがジークムント・フロイトの遺作「モーセと一神教」で始まる。「恐ろしい本である。引き裂かれた本で一冊である。ヨーロッパ文明の遺書の試みだった。おまけにこの本は人生の最後にフロイトが全身全霊をかけて立ち向かった著作だったのである。それが(モーセ)という神の歴史に立ち会ったユダヤ者の謎をめぐるものであったことは、フロイトその人がかかえこんだ血の濃さと文明の闇の深さを感じさせる」(12p)。起源にまで話を追求すると、それまで見えなかったことなのに目の前がパッと開けることがある。

何年か前に筆者は「一神教とキリスト教」《岸田秀》を読んでいて、その中に《モーセと一神教》が語られていて、書店に走って読んだ本である。モーセは本来エジプト人で出エジプトをしたけれど、ユダヤ人に殺された。言葉が不自由で、それで石版に文字で十戒を書かざる終えなかったこと。このストーリーが正しければ、モーセはユダヤ教の聖者でもないし、旧約聖書そのものに意味がなくなる。旧約がなければ新約もなくなり、キリスト教はいずこへ?

そんなことを思わせる本であったから、フロイト自身はユダヤ人であった同胞からボロクソ、キリスト教徒からも叩かれた。しかし、真実、起源にまで遡れば、十分に想像できる出来事が、エジプト国内にあって、モーセが逃げないといけない理由があったとしたら、現代のキリスト教徒の基盤は全部崩れてしまう。映画という文明の利器を使って《エクソダス》(出エジプト)を映画化しないといけない背景に、その疑いを払拭させる意味があるのだとしたらどうだろうか?

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