『セールスマンの死』(アーサー・ミラー原作)
ハヤカワ演劇文庫に『セールスマンの死』を見つけた。気になっていた本で読んでみた。自分も35年以上、セールスマン(営業職と言わないほうがニュアンスが伝わる)をしてきて、科白のあちこちに感動的な言葉がちりばめられている。1949年2月10日から1950年11月18日まで、演出エリアカザン(エデンの東の監督)で742回の上演回数を数える。観客は拍手を忘れて涙を流したという演劇である。華やかに活躍し稼ぎまくった時代もあったが・・・・・。主人公は63歳のウィリー・ローマン。場面は彼の家の中と庭である。全米各地を転々として、売れている間はいいが(何を売っているのかよくわからないが、それはどうでもいい)、加齢とともに全米にいる知人もリタイアして1000キロ走って会いに行っても、リタイアしておらず、1000キロ走って戻ってくることもある。妻リンダはじっと夫の帰宅を待っているが、二人の息子は思うように育っていない。父と息子の葛藤、会社に貢献しても(昔の話だが)最後はクビを言い渡される主人公。妻リンダが二男へ『・・お父さんは、港を探している小舟みたいなものなんですからね』と父親への理解を促す場面だ。主人公が車で自殺した後の葬儀で友人のチャーリーが次男に『ウィーリーはセールスマンだった。セールスマンには、基盤というものがないのだ。ナットでボルトを締められるわけじゃなし、法律に通じているわけじゃなし、薬も作れない。靴をピカピカに磨き、にこにこ笑いながら、はるか向こうの青空に、ふわふわ浮いている人間なのだ。だから、笑いかけても、笑い返してもらえないとなると、さあ大変ーーー地震と同じだね。・・・・セールスマンは夢に生きるものなのだ。その夢は受け持ち地域にあるものだ』(同書220p)セールスマンの生きるところはデスクではない。落ち着きがなくそわそわしているのは、遠くの人を、夢を見ながら妄想かもしれないが、ある個人を思い浮かべて『売れないだろうか?』と想像していると思って欲しい。1日でも2日でも歩いて会社の商品を売ったことがある人は、220pの5行が痛いほどわかるはずである。『セールスマンの死』は、夫婦の絆や父と息子の問題、アメリカの一攫千金時代の夢も盛り込まれている。老いていくと会社からポイされた時代。アーアー・ミラーの実家も1929年の大恐慌で家産傾き、苦学をして、下積みの仕事をしながら戯曲を書いてきた。現代、営業マンという曖昧な日本語より、明確にセールスマンというカタカナが私は好きだ。話変わって、山下達郎に『セールスマンズ・ロンリネス』と題した曲がある。ユーチューブで関心あれば聞いて欲しい。夏のある日、セールスマンがハンバーガー・ショップでコーヒーを飲みながら窓辺から街を眺めている風景を詩にしている。山下達郎はそういう人もじっと見ていたんだと思うとうれしくなる。
ばら色の未来は
ここには来ないかも
この街を行き交う誰ひとりも
幸せそうには見えないもの
・・・・・・・・・・・・
君は立ち上がり
ドアを押し開けて
歩き出す
真夏の絵の中へ
笑うセールスマン。
若い頃、セールスマンが大っ嫌いで、サラリーマンにはなりたくなかった。同じ会社のセールスマンにくっついて仕事先に行くと、そこの社長や責任者にへらへらとおべっかを使って、別におかしくもないのに大声で笑ったりして、まるでピエロのようだった。そんな姿を見たく無かったし、ましてやそんな事を自分でもしたく無かった。ところが、或る日突然、会社から営業に出てくれと言われ一旦は辞めるつもりで断ったもののゴリ押しされて外勤に出る羽目になった。最初は嫌で嫌で、新規訪問も玄関先で回れ右して喫茶店へ。何とか訪問しても一体どうしていいのか途方にくれたものです。そんなこんなで嫌気が差しかけた頃に或る訪問先で自分を受け入れてくれた課長さんや部長さんがいたのです。その方々から仕事が発生し面白味も沸いて、気が付けば、あれだけ嫌っていたセールスマンになっている自分がいました。
seto
私も実はセールスが大嫌いでしたが、食べるためには仕方なく外回りをしました。話すのが恥ずかしくて、今日の私ではなかったと思いますが、新しく自分の力とラッキーさ(気持ちが通う相手に遭遇して)で、いまの私があるようです。セールスマンは根っからのセールスマンはいなくて、どちらかというと『人間嫌い』が私の知るところ多いです。打算で生きる現実や各企業の縦割りを見たり、毎月の数字との勝負ですから、大きな仕事をみずから探すのは至難です。先輩や企業の持つ仕事を任されて数字をもらうセールスマンが圧倒的に多いし、そういう職業を毛嫌いいます。事務職やきれいな仕事、スマートな仕事へ志向してますが、仕事の本質は同じで真面目に仕事をする。小さな仕事をこつこつとではないでしょうか?私はボケや物忘れで周りに迷惑ばかりかけて恥ずかしい限りです。
広告マン。」
人間は悲しいと思えば悲しいし、楽しいと思えば楽しくもなるものですね。営業の仕事が大っ嫌いな僕も、自分流の営業方法に気づき出してからは楽しかったですね。毎朝、会社から離れられる楽しさ。遠くまでドライブがてらに営業する爽快さ。気の合う訪問先での楽しい会話。社内にこもっていた頃に比べれば、すべてが楽しかったですね。製品を持ち歩く訳でも無し、話をして広告を薦めるだけですから身軽でした。これが物品を売るセールスマンだったら苦しかったかもしれませんね。
seto
会社から離れる楽しさ(自由さ)はたしかに。具体的なものを売るセールスマンもしたことがわずかにありますが、楽しくはなかったです。本当は田舎の山の中の小学生と中学生が一緒に学ぶ分校で教師をするのが夢でした。遊んで遊んで学んでね。教師もセールスマン感覚有れば、サービス精神旺盛になるはずでsが・・・・。大学出てすぐ教師ではなくて2~3年は民間でのセールスマン労働をさせてから教師にするといいかも。
坊主の孫。
確かに!?。セールスマンしか経験が無ければ、つぶしが効かないとも言われますね。何せツールは口先だけですからね。手に技術もなければ、創作センスも無く、強いて有ると言えば営業笑いくらいでしょうか。でも、口と笑顔だけでビジネスができるのも考えようによっては特殊技術ですね。ただ、職を失った時、転職先の職種と言えば、やっぱりセールスマンしか無いでしょうね。
seto
それこそ、私の姿ですよ(笑い
ホランペッター。
会社ではDランクの後輩が居ました。彼は京都の某大学を出てブラブラしているところを当時同郷だった支店長に拾われて入社してきました。どう見ても営業にも向いていないおっとりとした性格でした。四国出身の彼はアイスバーンで転んで骨折し休暇中に、今度は大阪本社に呼ばれ内勤業務に就きました。その後、何故か?営業に配転。ところがビッグ・クライアントを引っかけて来ました。それも競合社は、あの大手D社でした。これで社内では局長級の椅子を与えられ、一目置かれたかと思いきや?やっぱり評価はDランクでした。第一に会社にいたことが無いし、部下も何処にいるのか分からない始末です。でも仕事は大きなものを引っかけて来る不思議なヤツでした。退職後はあのライバル社のD社に暫く身を置きましたが、暫くぶりの電話では今は余り無茶はやっていない様子でした。彼も口八丁と言うよりは頓智の効く面白く変わった性格でした。
seto
なるほど、面白い話ですね。彼には何か、魅力というか備わった何かがあるのでしょうね。広告の世界は不思議ですね。内容は(替え)なんですが、あの手この手ですから私は飽きました。