最初、ブログページに常時、私のプロフィールが掲載していた。ある時期から(それが私への通知もなく)削除されていたので、来月18日で4年目を迎えるので、第1回目のブログを再録する次第である。

筆者のこと


1951年に札幌に生まれ育った筆者は、ことし1月で68歳。長年住んだ地区は東区の苗穂といって旧国鉄の苗穂工場はじめ雪印本社、トモエ醤油本社、サッポロビール工場、ウィンターキャラメルを大ヒットさせた古谷製菓に囲まれて、アパートのベランダに出ると、風の向きで、きょうはホップとキャラメルの匂い、きのうは醤油と乳製品の匂いが鼻をつく食品工場エリアであった。豊平川の向こうには日本清酒や北の誉という清酒メーカーもあった。このあたりは、札幌の西側に藻岩山という山からの伏流水があふれ出す、食品の命の水が豊富に湧き出てきた場所でもある。煎餅工場やパンを作る家内工場も多くて、貧しい人たちは、私を含めて耳煎餅、耳パンという10円で山のように入った商品価値のないビニール袋詰めを買いにいったものである。現在、スーパーで流行のお菓子の「理由あり商品」は、実はとうの昔から、捨てるものでも食べれるという思想というか常識がきちんと根付いていたのである。忘れていたが、さらに北には丘珠地区という玉ねぎの大生産地もあって、秋の収穫期には甘酸っぱい玉ねぎも匂いの競演に参加。ただし、困るのは苗穂工場がSLの修繕もしていて、ポッポーでも鳴らせば石炭の匂いで食品の匂いが台無しになることだった。私の口が卑しいこと、匂いに敏感なのも5感のなかでもっとも原始的な感覚の鼻が、15年間の苗穂の暮らしで培われたのかもしれない。そんなにアルコールを飲まない私はとにかく食べる。おかげで真正の糖尿病になってしまった。 そうであれば、私の書くものに、高尚なものを要求されるのは到底、無理だとご判断願いたい。

  1. 私も北陸線の鉄道の町のすぐそばで育ちました。周りの大人たちは農家か鉄道員でした。駅のホームに列車が到着すると立ち売りのオジサン達が独特の言い回しで、小さな素焼きの土瓶に入ったお茶やミカンやあんころ餅やお弁当を売っていました。ホームには立ち喰い蕎麦もありました。絵が得意な私はもっぱら駅の構内で機関車などを間近に見ながら写生をしました。あのにぎやかな風景も今ではすっかり変わってホームの立ち喰い蕎麦も立ち売りのオジサン達の声も無くなりました。停車する列車も数本の普通列車のみです。あの独特の石炭の匂いや蕎麦の香りや、真っ白い蒸気の煙や、あわただしさが懐かしいですね。

    • 私は貨物列車が落としていく石炭を集めて石炭箱に入れたり、大豆を拾いフライパンで炒っておやつで食べました。鉄くずや空き瓶も拾ってお金にしました。子供だらけでした。土門拳のモノクロ写真集(筑豊のこどもたち)を見ると、当時の私たちの着ていたセーターや路地裏、チャンバラごっこ、そして妙に貧しくても明るい子供たちが活写されてます。1950年代のニホンンでした。

  2. 工場と言えば、僕の家の隣が酒蔵でした。いわゆる小さな酒造メーカーですね。水車小屋では米をツイていましたし、季節には杜氏たちもやってきました。巨大な樽にはしごを掛けてかき混ぜていました。酒とは縁の無い我が家でしたが、酒かすを貰って甘酒にしていました。酔っ払い相手の店番は子供の僕も手伝いました。今なら子供に酒など売らせるなと言われますね。

    • 子供も大人扱いをしていて、仕事の手伝いをさせられていましたね。甘酒でも酔ってしまうのは当時からでした。北の誉や千歳鶴は、超内の人たち、よく飲んでいましたね。一升瓶で買っていたと記憶してますが、父も下戸で現在もそうですが、自宅にはアルコールは父を引き継いでゼロ行進です。

  3. 鉄くず拾いと言えば、電力会社の下請けの人だったのでしょうか?。時折電柱に昇って何やら工事をしていました。僕たちはいち早く嗅ぎつけて電柱の下に落とされる銅線やボルトやナットを拾い集めて丸めて、時々現れる朝鮮人のオジサンに売っていました。鉄くず集めのオジサンは自転車の後ろにリヤカーを連結してやってきます。ちょっとオッカナイ形相の朝鮮人のオジサンを、大人たちは何となく蔑んでいたようでしたが、僕たち子供たちにとっては救世主のような存在でした。

    • 鉄くずは針金も含めて鉄くずと言ってました。たしかに電柱の下にも鉄や銅線の切りくずが落ちていたかもしれませんが、当時は銅の価値より鉄でしたね。近所に何箇所も買ってくれるおじさんがいました。5円や10円になると店屋へ行って買い物でした。それを専門で、自転車に積んで生活の糧にしていた人も多いと思いますよ。空き瓶や鉄くずなどで大金持ちになった人もいました。現在も企業としてやっています。くずも積もれば大金になる。それを継続するかどうかです。

  4. さすが、北海道ですね。貨車から石炭や大豆やはたまた野菜や?魚?に至るまで落ちているなんて?。私たちの北陸線の当時の列車は垂れ流しが公然としていたので駅を離れた線路には汚物などが落ちていました。乾燥して風化してしまうのですが、今では考えられないですね。悪さもしましたね。踏切で銅線を使って二本のレールにつないで警報を鳴らすとか?古い銅貨をレールに置いてぺしゃんこにするとかどうしょうも無い悪ガキでした。機関手も助手も同じ町や村の顔なじみのオジサン達ですから、さすがに事故につながるほどの悪さはしませんでしたが。子供の遊びを超えた、ほとんど今なら犯罪ですね。

    • 魚は父が銭箱にニシンを買いに行ったとき、大きな箱で買ってきますから、道路に落とした人もいたと思いますよ。私が6歳くらいまでの話です。私は線路で石を拾う趣味があって、チョークになる石、綺麗な緑色の石、砂利は拾いません。石を舐めるのも好きでしたが、後で聞くと、糞尿を車両から捨てていたことを聞いて、私はそれを舐めていたということになりますが、大病はしておりません。線路に置石をする子供がいて大問題にもなりましたね。

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