諭吉の生家と解体新書
ブログ書く時間のない1週間でしたので、昔、大分県中津市へ行ったおり撮影した福澤諭吉の生家です。この右側に記念館があって、造幣局が最初に印刷した1万円札、ナンバーが『00000000001』(0の数曖昧)のお札がガラスケースに置かれています。中津市内には、『中津っ子、慶応においでよ』というポスターがたくさん貼られていました。もちろん諭吉の写真とともに。パニック障害に耐えて福岡空港へ。別府湾を望むホテルの結婚式であいさつをしないといけない私でした。
下記は、村上医家史料館である。1640年から現在まで続く村上病院の歴史は凄い。ここの資料館には数千点に及ぶ医学関係や資料がある。私も錆びたメスや解体新書の綴じ本を手にして感激した。『蘭学事始め』を読んでいたので『ターヘル・アナトミア』の翻訳にどれだけ苦労したか。現在、使われている医学用語の基本はここで作られた。神経、血液その他もろもろ。1771年江戸で死刑囚が殺されて解剖が始まった。小塚原で解剖を見て、翌日から中津藩の江戸屋敷で翻訳が始まった。終わったのが1774年、3年を要した。前野良沢、杉田玄白、中川淳庵。
村上家はさらに幕末のインテリ高野長英をかくまった。幕府から彼の思想(開国を進めよ)を危険視して命を狙っていたのである。村上家は、西洋医学とともに西洋の思想に詳しい開明家の高野長英を自宅の中庭の白い倉庫に匿ったのである。シーボルトへ日本の地図を渡したということで・・・。
昔の少年。
九州は西洋との交流が盛んな土地でしたね。医学も宗教も文化も九州から本土に伝わったことも多いですね。僕も高校の修学旅行で熊本、長崎、鹿児島、大分、宮崎など巡りましたが、余り覚えていません。鹿児島の方言だけは難解だった事だけは覚えています。博多あたりには出張で行っていますが、札幌などは箱庭みたいですが、九州は建物が全て大きい事に気づきました。太宰府天満宮あたりにも歴史を感じますね。九州も広いですから、旅もゆっくりした時間が必要ですね。
seto
私は大分と福岡以外に旅したことはないんです、残念ながら。資料館や博物館めぐりで時間は楽しめるので、行くなら一人旅ですね。修学旅行は私だけ不参加でした。集団行動拒否でした。積立金で函館旅行をひとりでしてました。
ホランペッター。
九州と言えば、男尊女卑が代名詞ですが、今はどうなんですかね。九州でも「セクハラ」なんて問題になっているんでしょうか?九州の女性は情に厚いですよ。高校の時に寮生活をしていたのですが、繊維工場が多い街でしたから、九州から20代前後の若い女工さんたちが集団就職していました。同じ工場でバイトをしていた僕に一人の九州の女性がいろいろと面倒を見てくれました。照れくさかったので余り深くは付き合いませんでしたが、親元を離れていた同士でしたから枕カバーを縫ってくれたり、勉強机のテーブルクロスや手編みマフラーなど手作りのプレゼントをくれました。九州は大分あたりの炭坑街の出身のようでしたが方言も独特でした。九州には男性に尽くす女性は今でも多いのでしょうか?。北海道に来てまた驚いたのは、女性の言葉の乱暴さでした。まるで東京は下町のちゃきちゃき娘のようでした。何故か?と言えば母がちゃきちゃきの江戸っ子だったので、そんなイメージを受けました。所変われば女性も変わるですね。
seto
福岡出身の奥さんを貰った人から、大分の男性は男尊女卑、ひどいわよと聞いてましたが、なんとか娘は乗り越えてるみたいです。子供がいるからでしょう。母は強しです。北海道の女性に女言葉が発達していないのは確かです。開拓時代、力仕事をしつつ女言葉を使う機会はないですから。妻から『おんどりゃ!』と言われてます。(冗談)
坊主の孫。
北海道の友人を東京や福井につれて行った時は喜んでくれました。何気に見過ごして来た風景にとても感動してくれたのです。板塀や土塀、石垣や石段、門前町や参道沿いの駄菓子屋や甍や瓦屋根など私にとっては見慣れた風景でした。また大阪で知り合った九州の友人を冬の福井につれて行った時には雪景色に感動して子供みたいにはしゃいでいました。考えてみれば我が故郷にも多くの史跡があったのですが、理解しないまま今ではすっかり遠くに来てしまいました。
seto
娘婿は、歴史に興味がなくて足元に蘭学の祖たちの資料館があるのに『行ったことはない』。日田市に江戸時代、日本最大の塾があったのに『日田の人間は天領であったから生意気で好きではない』。そういう反応で、若い人は地元の歴史に興味少ないです。『高野長英って誰?』の世界ですよ。山城の跡は限りなくあります。藩だらけだったんですよね。国東半島の修行僧や仏塔や仁王像も迫力ある。玄関に写真を飾ってますよ。