役に立ちたいという衝動。
『ヒトの本性の深いところから衝き動かしている特徴は、役にたちたいという衝動であり、たぶんこれは私たちのあらゆる生物学的な必然性のうちでもっとも根本にあるものだろう』(ルイス・トマス著 人間というこわれやすい種 50p)。アメリカの生物医学者ルイス・トマスの最後のエセイ集に書かれた貴重な文言である。これは意味の取り違えや自己愛と混同したりしやすいが、やみがたいほど社会性が基本のヒトは、(役に立ちたいという衝動である)と読んだとき、私は定年後、近所で困ってる人を助けるのが生きがいの男性二人を思い出す。軽トラを持って、冬場なら年寄り世帯へ出向いて除雪と排雪をする。通学路の交差点を黙々と氷割りをしている。私も玄関の松をチェーンソーで伐採してもらったが、お礼をしようとすと怒る。『そんなつもりでやっているのではない』。損得勘定が蔓延の市場で生きているとこの部分が見えにくくなっているから要注意だ。自宅でも会社でも誰も知らない町の中でも、仕事をしていようと無職であろうと引きこもりであろうとなかろうと(役に立ちたい衝動)を抱えているのだと思いたい。それは基本的に相手への信頼があって起きる感情と行動なので、不信の中に囲まれていると作動できない。最近、私にクラスメートの名簿つくりを10年している人からメールがあって、その一文。
なお、あえて申し上げますが、私はこの10年、Nくんが亡くなってから、O君
と相談しつつ、かつての仲間たちの仲立ちをしようと、できない時はサボりましたが、それなりに努力したつもりです。名簿の作成(元はUくんがご努力くださいました)など、たいした作業に思えないかもしれませんが、実際はそれなりに気の使う作業です。しかし、私がこうして「奉仕」をし奔走するのが、当たり前であるかのように思っている人がいるのを知って、少々気を滅入らせています。考えてみてください、私がご当人お一人とやり取りをしていると見える時でも、私は10人とその10倍のやりとりをしているのです。
そんなことはおそらく分かってもらえないので、私からの名簿送付は、今回で最後にしようと思いました。でも、それでも、何人もの友人が今後ために努力下さっている事実を知って、ひとまずしばらくはこれまでの「役割」を続けることにしました。だから今後Ver.00を出す必要があれば、少なくとももう一度、私から皆さんにメールをお届けすることになると思います(あるいは幸いなことに、他の人たちのご努力のおかげで他のシステムになっているかもしれません)。
縁の下の作業は、まずはお役に立ちたいから始まります。名簿つくりも個人情報保護法が施行されてからより厳しくなってきている。彼にあった善意の《役に立ちたい》という衝動が10年経過しても相手にその真意が伝わらない、ご苦労様の一言で相手の苦労が報われるのに、もったいない話である。ルイス・トマスの言葉で考えると、(役に立ちたいヒトの深い本性〈衝動〉が、何かの事件や他人の一言で変質してしまう)こともあり得ると考えると筋が通る。私が何を言いたいのかというと、引きこもりや登校拒否児童や出社拒否社員などを救う道の一つが、本来のヒトの本性にある役に立ちたい衝動を彼らに実現させてあげることではないかと思った。家の手伝いでもいいし、買い物でもいい。そして〈ありがとう)から始めてみてはどうだろうか?
坊主の孫。
ボランティアや善行が果たして、身近にいる引きこもりや登校拒否児童や出社拒否などを救う道になるのかどうかは分かりませんが、彼ら彼女らは自らバリアーを張って自分の許せる者だけしか相手にしないので、多くの大衆の面前に出て行けるかどうかが疑問ですね。他人を嫌い、家族も嫌い、友人も嫌い、学校の教師も同級生も、会社の上司や同僚も、対人嫌いはなかなか治りません。そのくせ、寂しくなれば、他人に注目されたい衝動でとんでもない事を平気でやってのけたり、精神状態が一定ではありません。ただ方法としては、同じ境遇の分かりあえる者同士のグループ化は可能かも知れませんね。そんな集団で何か、世の中の為とか大上段に構えずに、自分たち自身のために一つでも奉仕活動で歓びを感じられたとしたら良い方向に向かうのかも知れません。このような引きこもりの子供から大人までが増え続けているのは事実ですし、何か対策を考えなければいけないでしょうね。国は民間任せ、家庭任せですが、親も親族も救いの方法を未だ見つける事が出来ないのが現状ですね。
seto
同じ境遇の人と話せるのは救いで、彼らのために何か役立てたい気持ちはきっとどこかにありますから。声をかけたり遊んだり、ゲームしたり、励ましたり。同じ境遇の人ならいつまでもおしゃべりできるとは凄い能力です。引きこもりをなくす近道は『親がグレルこと』と言った哲学者がいました。2回ブログで載せたので、近々、再録させてもらいます。週に3回、営業の仕事をしている私としては、外歩き・飛込みをしているのですが、コンクリートに囲まれた事務室は全体引きこもりに見えたりします。極端な話、日本列島全体、そこに住む人々も引きこもりに見えたり、アメリカの現在も引きこもって、パソコンやシステム、ITで他社(他者)とつながる世界にみえますがいかがでしょうか?ITの世界は引きこもり傾向の強い人間には最適の環境ではないでしょうか?
信じる者は騙される。
札幌郊外の独居老人のお宅や、老夫婦のお宅の玄関先の除雪作業をしたことがあります。当然、感謝されるであろう?と思ってはいたのですが、感謝されたことはありません。それどころか、作業が遅いとせかされたり、更には屋根雪も降ろしてとか無理難題。寒い中で汗水たらして働く僕を二階から監視する年寄りまで居ましたよ。ボランティアは感謝を求めてはいけないとは言うものの、人間ならお礼の一言くらいは貰っても罰は当たらないでしょう。奉仕する側とされる側の感覚も様々です。
seto
お礼の一言がない、そこまでいくと基本的にその人自身の常識感覚疑いになりますね。2階から監視になると何を勘違いしているのかと思いますね。相当、疑い深い人生を経てきた老人なのかと思います。『されて当たり前、私は人一倍苦労や貧乏をしてきたんだから』、中にはそういう人もいるかも。
広告マン。
長く勤めた会社が倒産して職を失った時でした。次の仕事のために自立しようと会社設立準備の傍ら、隣の区の老夫婦のお宅の窓ガラス拭きをしました。砂埃などを洗剤で洗い流し、乾いた布で拭き取り、引き戸のレールのゴミやカビも除去しました。ベランダや窓からの景色がスッキリ見えるようになり、明るくなったと大変喜んでいただきました。煙草銭とか言って千円札を渡されましたがお断りしました。帰り際に世間話の中で、お隣に息子さん家族が住んでいることを知って驚きました。親子でありながら、隣同士でありながら、他人に窓拭きを頼むとは?他人には言えても、家族には言えない?そんな老人たちも増えているようですよ。感謝されたものの正直言って複雑な気持ちで、そのお宅を後にしました。個人宅のボランティアは人間模様が見えてきます。
seto
なるほど、隣に息子さんの家族が住むものの窓拭きさえ頼めない・・・・。そして窓拭きを他人がするですか。なまじ近所に住まない方が、どちらにとっても良かったという結論ですね。生々しい家族関係が見える瞬間ですが、はっきり見えると嫌なものです。隣町でチラシ配りのバイトをしていたとき、ある婦人が『向かいの家は息子さんの親と同居していたんですが、先月、同居してすぐに家を出ていきました』とチラシ配りの私に。どこの家も深く覗くと事件だらけ。見えないほうが良かった話ばかりです。
流浪の民
引きこもりの孫娘の素行が日に日に悪くなって来たので、いっそ病院に預けようかと持ち掛けたところ「病院はスマホができない」と来ました。スマホ病を治そうとの思惑も、スマホが無ければ世間との一縷の道が閉ざされるのか?と。不思議な事にPCをいじらずTVも視ずにスマホのみいじっているようです。親が一旦、与えてしまったものを取り上げるとすれば大事件が起きそうです。引きこもりは、自身では引きこもりではないと断言します。確かに引きこもりとして同じジャンル分けも問題解決にはならないとは思いますがね。心機一転、住まいや職場や学校を変えて見るのが一番良いかも知れませんね。私自身、土地も職も住まいも転々と変えてき一人ですから、確かに新しい気持ちになれますね。
seto
学校を変えるのが一番の近道かもしれません。新しい気分になるかも。私は3回転校してますから、そのたびに、近寄ってくる好奇心旺盛な子供もいましたし、刺激があって変われるかもしません。それと不登校児にためのフリースクールが札幌にたくさんありますよ。調べるといいです。そこへいくと同じ悩みを抱えてきた仲間にたくさん会えて復活の可能性大になるかもしれません。朝日新聞・北海道支社主催で『相談会』を開催してますよ。
流浪の民
それは既に試し済みです。そんなスクールは居心地が良いようですが、甘えが一層増幅してまたまた不登校になりました。何とかそんな中学を卒業らしき事にはなったものの、今度は高校でも同じ結果です。この病気は死ななきゃ治りませんね。人間グレると手に負えませんね。せいぜい犯罪にならないように目を光らせています。
seto
失礼しました。フリースクールへ行かれてもなおですか?グレる話は親が子供の前でグレルと子は治るという話なのですが。どういうことがグレルことになるのか再読してみますが、勇気あることですが、トンデモない親だということを子供の前で見せるのですが・・・。不良になることらしいのですが、私の世代用語ですが。
流浪の民
親は子供の面倒を見ず、たまに機嫌取りにドライブくらいで、既にグレているようなものです。ですから子供もグレるのです。親がしっかりして治れば子も治るかも知れません。
seto
親がしっかりし過ぎる場合も、干渉だらけで息詰まる子供暮らしを強要するときもあります。親の見栄のために子供を育てているケースがとても多いので書いたわけで、私はいい加減な育て方のほうが(ポイントだけ出てくる)いい結果になると。自由放任で育った私なのでそれ以外の子育ては、実感わかないのですが、14年引きこもりの甥が近くにいるので(一度説教して、妻にカバンをぶつけられた)、突然のヒステリー現象と目に殺意が見えたときぞっとします。哲学者中島義道さんは『子供は両親に復讐しているんだ』と書いていました。彼についてのブログを来襲、再録します。