地球上の地震エネルギーの10%、日本で放出!

何が怖いといって、地震ほど怖いものは戦争もそうだがないといっていい。南海トラフのシミュレーションCGがニュース番組で流され始めているので、このブログを再々録する。

地球上の地震エネルギー10%、日本で放出!黒澤明のこと。(2016年2月9日掲載)

 

 

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丸の内

図説「地震と人間の歴史」(原書房・2013年刊)によれば、1年間で地球上で放出される地震エネルギーの実に10%は日本に集中しているという。

アンドルー・ロビンという英国の自然科学者の本に書かれてある。2030年代に発生が予想されるマグニチュード9以上の南海トラフ巨大地震。東日本大地震の復興途上にもかかわらず、さらに桁の大きな津波や地震がこの本を監修した京大の鎌田教授のまえがきに書かれてある。週刊誌で、毎月のように大地震の話題は書かれているが、津波は34メートルと予想されている。

自分がいま働いていたり・住んでいる場所の海抜は何メートルかはネットですぐに検索できるから便利だ。ちなみに札幌駅で日本海から海抜約20メートル。私の住む場所は太平洋から30メートル。新千歳空港は30メートル以下かもしれない。空港の下には追分断層という活断層が南北に走っている。ここに限らず、日本じゅう活断層のない所はありませんというのが正解かもしれない。

東大地震研が書いた「日本活断層地図」があるけれど、予算がなくて全部を調査できないとも書かれてあった。だから、日本列島で起きる地震や津波はどんなに大きくてもすべてそれは「想定内」と思って物事は勧めた方が、日本の過去の歴史や地震体験・記録を見てもリスク管理面から考えても正しい選択だと思う。無駄な議論と時間を使わなくて済む話。自然からみたら、想定の内外は全く関係ないことだ。

これに加えて火山の噴火もある。私も有珠山の爆発を身近にしているから、洞爺湖温泉街のゴーストタウン化もあった。支笏湖そのものも樽前山の大爆発でできた窪みだから、湖の多い北海道は九州や中部地方東北もそうだけど火山だらけだ。

お隣の中国も地震大国で、3000年前から記録があって(記録に残していること自体凄い!)、これまで地震で亡くなった人は1300万人以上、そのうち83万人は1556年の想像を絶する地震からだと。吉川弘文館の世界史年表には明帝国の項目に書かれていないのを発見した。1775年11月1日のポルトガル・リスボン大地震は首都を壊滅的にしたにもかかわらず、ヴォルテールが「カンディド」で書かなければ、歴史の記憶から消えている。ヨーロッパの経済、政治、知性の僻地とみなされていたからだ。津波もあって約3万人が亡くなっている。

ところで、この本に映画監督黒澤明の名前が出てくる。1923年の関東大震災のときに彼は13歳、中学2年生だ。山の手に住んでいたが、自宅は半壊状態ながら運よく家族全員無事であった。60年後、彼は自伝「蝦蟇(ガマ)の油」(岩波書店)を執筆、この中に兄貴と廃墟の遠足を試みた文章が引用されている。「私は、まるで遠足へでも出掛けるような浮き浮きした気分で、兄と一緒に出掛けた。・・・・その遠足がどんなに恐ろしいものかに気がついて、尻ごみしたときはもう遅かった。・・・・怯える私に無数の死骸を見せた。・・・・兄は私の手を掴んでどんどん歩いていく。・・・・黒焦げの屍体も、半焼けの屍体も、どぶの中の屍体、川に漂う屍体、橋の上に折り重なっている屍体、四つ角を一面に埋めている屍体・・・あらゆる人間の死にざまを、私は見た。私が思わず目をそむけると、兄は私を叱りつけた。(明、よく見るんだ)・・・・・死骸の山の一つに、座禅を組んだ黒焦げの。まるで仏像のような死骸があった。兄はそれをじっと見てしばらく動かなくなった。そしてポツンと言った。(立派だな)私もそう思った。」

*「蝦蟇の油」を入手したので後日、読了したら書くかもしれない。少年時代の黒澤明は泣き虫でいじめられっこであったと自分で書いていた。指につばきをかけて書いた絵をクラスメートからゲラゲラ笑われたにもかかわらず、三重丸をつけてくれた絵画の先生への感謝の話を感動的に描いている。それ以来、絵を書くのが大好きになり、映画監督になって絵コンテを丹念に描くようになったのにつながっている。何がどう転ぶか、人生わからないものである。

  1. ゼロ戦パイロットの弟。

    福井大震災の記憶は幼い私の脳裏に今も刻まれている。親子ほどの年の差の兄は、当時県庁勤務だったが、瓦礫の中から女性を助け出した。馬主の両親から感謝され嫁に貰ってくれと市内に家を建ててくれて結婚した。あの時僕は6歳上の姉が手を引いて逃げる途中、道路に降り注ぐ瓦の炸裂する破片を避けながら、先ず近くの学校のグランドを目指したが目の前で木造の橋が土煙とともに崩れ落ち断念。回れ右して親から聞かされていた孟宗竹の林に逃げ込んだ。親たちは野良仕事や山仕事で家にはいなかったので子供たちだけでみんな竹林へ逃げた。親たちも大きな川にかかる橋が落ちたので,下流の村に架かったつり橋まで歩いて夜に戻って来た。幸いにもみんな無事だった。田舎だったから子供たちも逃げ場もあったからだと思う。余震は続いて毎晩枕元に母が作った綿入れ防空頭巾と衣類を風呂敷に包んで寝た。その後、兄に連れられて復旧した私鉄電車で兄嫁の実家へ向かったが、車窓からは屋根の三角部分だけが地面に置かれた景色ばかりが続いていた。兄嫁の立派な実家は崩壊し、丸太で組んだ掘っ立て小屋にムシロを敷いて両親が迎えてくれた。死者は見ていないが、被害の大きさは幼かった私だったが今でもハッキリ覚えている。あの大地震が基準になって震度7の基準値が決められたそうだ。復旧後の市内での都市計画では当時全国一の下水道が実現したとも聞いている。地震発生時に雷のような地鳴りで泣きさけんだ事も覚えている。

    • https://www.youtube.com/watch?v=AEZfL6-n-F4
      福井地震の映像を見つけました。1948年6月28日 午後5時に発生。死者3769人、倒壊3万戸で阪神淡路震災が起こるまで戦後最大の地震です。竹林は根が地中深く張ってるので地盤がいいので竹林へ逃げろと昔の知恵は教えています。十勝沖地震のときは筆者は高3授業中で机の下に隠れました。震度4でした。タマネギ農家の人は農地に残された大木に掴まってましたよ。正解ですね。映像でわかりますが、福井市内のビルも崩壊・大火災をしてます。過密な大都会はどうなるか想像するだけでぞっとします。列車は全部、横倒してました。

  2. かつて10ヵ月連続の著名人や専門家の講演会を札幌市民会館大ホールで開催した時の事。講師の一人に地震学者の講師を呼んだ時の彼の話では「日本国内では3分に1回の割合で地震が起きています」と言っていた。その前年に奥尻の津波大被害があったばかりだったので、良かれと思って選んだ講師に観客の一部が「面白くない」と苦情を言って終了を待たずに帰って行った。地震に面白い話などあるはずが無いのに?。

    • 真実を突きつけられるのが嫌なのでしょうか。地震大国なのに。有名人のお話を聞きたかったのでしょうね。地震の話を聞いて、何十人も感動して聞いていた人がきっといますよ。

  3. これだけの地震大国に住みながら私たちの備えはどうでしょう?。これからでも遅くは無いので準備したいですね。スマホの便利ツールのコンパスをタップすると、方位磁石の他に場所と北緯・東経・高度が表示されます。自宅は80mでした。更に下の点をタップすると水平器にもなり傾き確度なども計測できます。電話やSNSや写真や動画も取れますから便利ですが、問題は電気が確保できる環境に限りますからね。電気が使えなくなったり、クルマが使えなくなった場合の心の準備も必要ですね。

    • 昨年のブラックアウトに懲りて、太陽光のグッズは相当集めました。庭も太陽光のランプを4本置いて、明るくしています。電池もカセットコンロの予備も増やしました。灯油ストーブと備蓄灯油缶も準備してます。車から携帯へ電気送るバッテリーも揃えました。神棚にATM故障の場合を考えて10万円を置いています。

  4. ゼロ戦パイロットの弟。

    高齢で独居生活が長かった父は胴巻きに絶えず10万円を入れていたようです。僕が聞いた話では『敦賀原発事故で放射能漏れが起きたらタクシー呼んで逃げるんだよ』と言っていました。果たしてタクシーの運転手さんが逃げずに来てくれるか?疑問ですが。山を越えれば敦賀ですからね。田舎の人達は『まだ生きるつもりなんや?』と悪口を言っていたようですが、当の本人は悪口は聞こえない都合の良い耳でしたから気にしていなかったようですね。

    • 隣の家の主から私に『緊急にお金が必要なことがあったら、神棚に10万円置いているから、いつでも借りにきていいよ』と言われていました。急な通夜など発生した時など心強く感じました。10万円って多すぎもせず、少なすぎもしない額ですね。泥棒がきてもこれを渡せば逃げ延びれる額だと思いません?今回の地震で敦賀原発、大丈夫だったんでしょうか?

  5. ゼロ戦パイロットの弟。

    敦賀のある福井は新潟との間に石川がありますから、距離的には相当あります。ですからさほど影響は無いでしょうね。震源地は新潟のむしろ山形寄りでしたからね。あのあたりも大きな地震はよく起きますね。

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